江戸時代初期の俳諧は、京都の松永貞徳が中心になって指導したので、貞門俳諧といわれる。さらに、一六七〇年代に大坂の西山宗因たちが、新しい作風に移り、それが京都、江戸などの都市でも流行した。これは談林俳諧といわれる。それらの作品は、寛永一〇年(一六三三)の『犬子(えのこ)集』以来、多くの作品集にまとめられて出版されてきたが、万治二年(一六五九)刊の『鉋屑(かんなくず)集』(岡本胤及撰)には小倉住の無何という人の、同三年刊の『新続(しんぞく)犬筑波集』(北村季吟撰)には中津の飯田三範や豊言という人の句が掲載されている。それからやや年を経た寛文六年(一六六六)刊の『遠近(おちこち)集』(西村長愛子撰)には、小倉、中津の作者が二六名、翌七年刊の『続山井(ぞくやまのい)』(北村季吟撰)には、小倉、中津の作者が二三名載っていて、流行が豊前地方にも及び、まず城下町である小倉、中津で俳諧を楽しむ人々が出てきていることを示している。
花を粉(フン)で同じく写す蒔絵かな 内海玄真
この句、「粉」は金粉、銀粉や胡(ご)粉。蒔絵(まきえ)を描くのに用いる。「蒔絵」は漆器の地に金、銀粉や胡粉を用いて絵や模様を描くもの。ここは『和漢朗詠集』にある「花ヲ踏ンデ同ジク惜ム少年ノ春」という白楽天の詩の一句を踏まえて「粉で同じく写す」と懸けていったもの。このように、漢詩や和歌、物語などの言葉を踏まえ、懸け詞や縁語を使用し、粉や蒔絵のような俗語を使った表現でおかしみを表している。
晩鐘に耳ふさぎせよ花ざかり 豊前小笠原家来随流
「晩鐘」は、日没時の寺院の鐘。平安時代の歌人能因法師の著名な和歌「山里の春の夕暮来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」(『新古今和歌集』)にあるように、晩鐘の響きが花を散らすので、その音を聞かないように耳をふさげというもので、盛りの花が散るのを惜しむという、和歌の世界からうけついだ伝統的な優雅の情を踏まえ、耳をふさいで鐘の音を聞かないことで、花を散らすまいという奇妙な理屈をいうところに、おかしみが感じられる。「晩鐘」は、音読する漢語。俳諧では「俳言」といって、連歌では用いない漢語や俗語を使う。
右の句は、前のが寛文一二年(一六七二)刊の『時勢粧(いまようすがた)』(松江重頼(しげより)撰)、後の句は『続山井』に載せている豊前の人の句である。この時期の作風は、このように日常の卑近な素材や言葉を用い、古詩、古歌、物語などの伝統文芸の語句をもじって、本来の優雅さとは対照的なおかしみ、笑いを生み出すものであった。