同(貞享元年)六月廿五日小倉を発ち、即非(ソクヒ)和尚開基(キ)広(クワウ)寿山を見て、大橋に着く。 | |
名残を植(ウヱ)て雨に咲かせり宿の夏 | 豊前大橋苅田氏残春 |
耳ひく泉に立ちどまりつれ | (三千風) |
陸奥のちがのうらわもしらぬひの | |
つくしの海に名をぞよせける | 残春親父無染翁 |
(下略) |
それから彦山へ行き、大橋に帰った三千風は、
○ | 七夕の夜 | |
麻(アサ)衣星にかしこうぞ長旅して | (三千風) | |
彦山へとばせ給ふや神路の月 | 宮市島氏重政 |
の唱和を残し、七月一二日中津へ向けて発った。
これが現在のところ、行橋で知られる俳諧作品と作者の最も早いものかと思われる。三千風は、あるいは石原売炭の紹介を得て訪問したのかもしれない。
右のうち、苅田氏残春は、屋号を苅田屋といった井上元翠(げんすい)のことであろうといわれている。
宮市の柳浦(柳甫とも)は嶋(屋)市右衛門。三宅氏とも。元禄一三年(一七〇〇)刊の三千風編『和漢田鳥集(わかんでんちょうしゅう)』に俳句が見え、三千風との関係を後年も保っていたかと思われる。
京都の俳諧師池西言水(ごんすい)は、三千風より早く天和三年(一六八三)に北部九州に行脚している。その言水編、元禄二年(一六八九)序の『前後園』に柳浦の句が見える。柳浦は言水とも何らかの関わりを持っていたと思われる。また、作者は不明ながら、言水が加点した連句が存する。
江戸時代の行橋の俳諧は、多くを上記の元翠の子孫にあたる井上家代々の人々と、その周辺、中央からの来訪者の活動によってたどることになる。井上家はもと苅田に住したが、元翠の代かその父の代に、月に六度の薪木の市を立てて、大橋に商業の道を開いたといわれ、後には綿実座を運営するなど商家として重きをなした家であった。
以下、井上家に残る資料などにより、元翠、有隣、里隣、里翠、雨隣という、幕末まで五代の人々を軸に、その俳諧について述べる。