三千風の来訪

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 では、行橋ではどうであったろうか。貞享元年(一六八四)、伊勢の射和(いさわ)の出身で仙台に住んでいた俳諧師大淀三千風(みちかぜ)が、全国行脚の途次、行橋を訪れている。元禄三年(一六九〇)に刊行されたその著『日本行脚文集(にほんあんぎゃぶんしゅう)』によれば、六月二一日、小倉の石原売炭(権四郎、北村季吟門)のもとを訪れて遊んだあと、二五日小倉を発(た)って大橋(現行橋市大橋)に着く。大橋では「苅田氏残春」、その父「無染翁」、宮市(現行橋市宮市)の「嶋氏豊風軒柳浦」が、三千風を迎えて、俳句や和歌を作っている。
 
同(貞享元年)六月廿五日小倉を発ち、即非(ソクヒ)和尚開基(キ)広(クワウ)寿山を見て、大橋に着く。
 名残を植(ウヱ)て雨に咲かせり宿の夏 豊前大橋苅田氏残春
  耳ひく泉に立ちどまりつれ(三千風)
 陸奥のちがのうらわもしらぬひの
   つくしの海に名をぞよせける残春親父無染翁
 (下略)

 それから彦山へ行き、大橋に帰った三千風は、
七夕の夜
 麻(アサ)衣星にかしこうぞ長旅して (三千風)
 彦山へとばせ給ふや神路の月宮市島氏重政

 
の唱和を残し、七月一二日中津へ向けて発った。
 これが現在のところ、行橋で知られる俳諧作品と作者の最も早いものかと思われる。三千風は、あるいは石原売炭の紹介を得て訪問したのかもしれない。
 右のうち、苅田氏残春は、屋号を苅田屋といった井上元翠(げんすい)のことであろうといわれている。
 宮市の柳浦(柳甫とも)は嶋(屋)市右衛門。三宅氏とも。元禄一三年(一七〇〇)刊の三千風編『和漢田鳥集(わかんでんちょうしゅう)』に俳句が見え、三千風との関係を後年も保っていたかと思われる。
 京都の俳諧師池西言水(ごんすい)は、三千風より早く天和三年(一六八三)に北部九州に行脚している。その言水編、元禄二年(一六八九)序の『前後園』に柳浦の句が見える。柳浦は言水とも何らかの関わりを持っていたと思われる。また、作者は不明ながら、言水が加点した連句が存する。
 江戸時代の行橋の俳諧は、多くを上記の元翠の子孫にあたる井上家代々の人々と、その周辺、中央からの来訪者の活動によってたどることになる。井上家はもと苅田に住したが、元翠の代かその父の代に、月に六度の薪木の市を立てて、大橋に商業の道を開いたといわれ、後には綿実座を運営するなど商家として重きをなした家であった。
 以下、井上家に残る資料などにより、元翠、有隣、里隣、里翠、雨隣という、幕末まで五代の人々を軸に、その俳諧について述べる。
 
写真11 三千風短冊
写真11 三千風短冊
(井上清氏所蔵)