元翠と支考の来訪

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 井上元翠(一六五五~一七三三)は吉左衛門重信。通称苅田屋加助。『日本行脚文集』の残春が元翠ならば、三〇歳の頃、既に俳諧に親しんでいたことになる。
 その貞享元年(一六八四)から十数年、俳諧の世界は新しい展開を見せ、俳諧のおかしみを本質的なものとして存しながら、古風俳諧の表現を改めて、和歌、連歌にならったやすらかな言葉遣いをする作風の当流俳諧となる中で、芭蕉が隠栖と旅の生活を通して、さびの美を追求し、元禄七年(一六九四)に没した。
 元禄一一年(一六九八)、芭蕉の門人支考が中国、九州地方を旅する途次、大橋を訪れている。その折の紀行『梟(ふくろう)日記』には、六月二日から四日までのことが次のように記されている。二日、元翠亭に着き、泊った支考は、夜、隣室で明日は何でもてなそうかと夫婦で相談する声を聞き、元翠はものにこだわらない、おもしろい男であると評している。三日は柳浦亭に招かれるが、柳浦手作りの瓜畠を見て、支考は郷里の美濃(現岐阜県)の真桑瓜の畠を思い出してなつかしんだ。四日は大橋の人々に送られて椎田の浜の宮に参詣し、元翠、柳浦、桐水、一袋らと夜籠りをした。大橋の人々の、支考との別れを惜しむ様子がしのばれる。
 この時の旅で、支考は、各地でその地の人々と表合(おもてあわせ)(八句)という短い形式の連句を作っており、大橋でも次のようなものを残している(『西華集(さいかしゅう)』)。
 
  かりの世の住ゐや蚊屋に顔ばかり柳浦
   うそのやうなる夏の明けぼの元翠
  かの君が五条あたりの月を見て支考
   俄さむさの露ぞしぐるる一袋
  ささ栗に猿鳴きわたる山づたひ雲鈴
   此のごろ出来た村に名もなし不帯
  物知りの京から居(スワ)る西方寺桐水
   たばこと酒に十両の金野吹

 
 作者のうち、雲鈴は支考と同行して行脚してきた人であるが、それ以外は、先の『梟日記』にも見えた人々を含め、大橋やその近隣の人たちであったと思われ、このような俳諧の座を囲むことのできるようなグループができていたことが分かる。
 短い夏の夜を、はかなく死に別れた、なつかしい顔を思い浮かべながら過ごし、蚊帳の中で夜明けを迎える人の心を詠嘆し、京の五条を舞台として、光源氏風の貴公子の世界を暗示する場面を転じて、客を送り出した遊女が感じている、身にしみる寒さを表す。新開発の、名前もまだない村がある一方では、京で修業した知識豊富な僧を寺の住持に迎える富裕な村もある。講の集まりや説教会がしばしば行われ、煙草や酒が景気よく売れる。無常感や物語的な世界とともに、現実の生活が描かれている。
 この作品は、先の玄真や随流の句のように、古詩、古歌などを踏まえ、縁語、懸け詞を駆使しておかしみを出した古風な俳諧と異なり、庶民の生活のさまざまな情景や心情を述べることが主流となった、新しい俳諧の流れの中で生活や心情を表現しているといえよう。
 支考は、これから熊本、長崎に遊んで帰路の八月初め、黒崎(現北九州市)あたりで病気にかかり、黒崎や小倉(現北九州市)で九月初めまで過ごすことになるが、その折も、元翠や柳浦が小倉まで見舞いに来たりしている。新しい俳諧を伝えてくれる人として大切に思ったのではないだろうか。
 
写真12 柳浦短冊
写真12 柳浦短冊
(井上清氏所蔵)