宝永(一七〇四~一一)初年、元翠は、自分の菩提寺である安楽寺の墓地に「枯野塚」を建立した。正面に「枯野塚」と彫った石碑が現存する。この碑のことは、早く遊五編、延享元年(一七四四)序の『雪の尾花』に見え、義仲寺編、宝暦一一年(一七六一)刊『諸国翁墳記(しょこくおきなづかき)』に「豊前ニ在、元翠建」とあって、早くから世に知られていたものである。元翠は、芭蕉の生前に、この師のことを知らないままに過ごしたことを悔やみ、「しらぬ人のしらでいますか雪の下」と詠んで追慕した(『西華集』)。芭蕉は、その生涯に九州にはついに杖をひくことはなかったが、その門人たちのうちで、元翠を訪れた人は支考だけでなく、怒風、魯九(ろきゅう)、天垂、芦本(ろほん)などがあげられる。元翠はこれらの人々からも芭蕉のことを聞いていて、傾倒するところがあったのだと思われる。享保元年(一七一六)一一月、近江彦根(現滋賀県彦根市)の芭蕉門人孟遠(もうえん)が元翠を訪れ、一月遅れの芭蕉二三回忌の追善の句を枯野塚に手向けている。
丙申(ひのえさる)(享保元年)十一月十二日蕉翁廿(にじふ)三回忌
豊前大橋枯野塚にて懐旧の三句
土あれば水ありけふの冬の月 大ハシ元翠
田に移る塚の鏡や鳴く千鳥 小クラ五礼
面もたぬ猿が仏や神無月 行脚孟遠
(『なまづばし』、天理図書館・綿屋文庫蔵)
晩年の元翠は、家の傍らに一室を構えて籠り、庭に竹二本を植え、隠士として瀟洒な暮らしをしたと伝えられている。
写真13 枯野塚と元翠短冊(井上清氏所蔵)
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