九州に多くの門人を持つことになった芭蕉門人野坡(やば)が大橋を訪れたのは、享保一三年(一七二八)のことで、十日ほど元翠亭に滞在した野坡は、元翠を「十年の友」と呼び、「夕顔や心よそはぬ門印(かどじるし)」と詠んだ。句意は、門口にはいまつわる夕顔が心のままに茂っているように、この家の主人は、心を飾らず、真直ぐな気持で私をもてなしてくれた。夕顔は、そんな主人が居ることを示す目印になっているということであろう。支考と同じく、元翠の飾らない人柄を認めている。元翠が享保一八年(一七三三)死去した折には、
はな摘(つみ)や人は六字を十七字(『野坡吟草』)
と、南無阿弥陀仏の六字より一七字の俳句を手向けようと、風流人元翠を強調して悼んでいる。野坡は芭蕉像に賛をして元翠に与えたようであるが、これは、枯野塚を建てたほどに芭蕉に傾倒していた元翠に心を動かした結果ではなかろうか。