有隣と馬貞

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 元翠の子は、源七信清(?~一七五四)。俳号は有隣。不孤堂といった。俳諧は野坡門。同じく野坡門の馬貞(一六七一~一七五〇)との交遊が知られている。馬貞は豊後玖珠(現大分県玖珠郡玖珠町)の医師長野通易。『柴石集(しばいししゅう)』などの編著があり、活発な活動をした人である。
 馬貞は、元文二年(一七三七)六月、豊前に旅して、大橋の有隣のもとに泊っている。
 
   大橋 有隣亭 宵より枕をゆるされて
   つとめての日(翌日)
  寝て肥えし旦(あした)や市の初鰹         馬貞

 
 馬貞はこのあと下関へ出るが、その途次、苅田(現京都郡苅田町)、曽根を経て津田(現北九州市)まで大橋の有隣や居由と同行した旅が、『築波(つくば)の道連』という紀行文として残っている。
 
 文月十八日
苅田のこなたの道の辺小さき森の中に、ゆゑづきたる古墳(ふるづか)有り。何ぞと問ふに、隣子(有隣)いその殿と答ふ。さはいかに。又答へて、寿永の昔聞く事あらん。清経朝臣(きよつねあそん)の骸(がい)骨、沖浪にゆられもて此の磯にとどまりしを、里人よきに葬り奉りて此の名ありと語る。いまも注連(しめ)引きまはしてかしづき祭ると見えたり。しばらく感慨の頭をかたぶけ侍りて
  殿の名の真砂積みけり虫の声         馬貞
  音すなり梢の浪を殿のあき          有隣
  さればこそ殿松風の露しぐれ         居由
(下略)

 享保一一年(一七二六)刊、馬貞編『柴石集』には、大橋、行事の人々が十数名掲げられている。
 
石中に千樹の葉を孕(はら)めるは常にして、間亦(まままた)水魚の形あり。
鱗(うろこ)たてがみ、おのづから活けるがごとし
 柴塚の月日喰ふや紅葉鮒大ハシ元翠    

をはじめとして、万艸(ばんそう)、大領、万里、路貫、如風、用和、行事の岩重、居由らの句が見える。また、小倉の野坡門人程十編、享保一三年刊『門司硯(もじすずり)』にも、
 
  青梅や塩と寝る夜の男住み元翠
  河下の櫓(ろ)声拾ふや後の月有隣
  板敷の草履新し更衣(ころもがへ)大領
  うの花や大竹原の一つかみ亡人甚長
  五月雨の足踏みぬくや草の浪百越
  蟹の背を高めてすごき月夜哉路貫
  白菊や元の目になる竃守(かまどもり)用和

 
などの人々の句が見える(大内初夫「『門司硯』-九州俳書解題と翻刻(一)-」『鹿児島大学文科報告』第八号、一九七一)。俳諧をたしなむ人々の数が元禄期より多くなっていることが見てとれよう。