里隣と無耳庵

556 ~ 559 / 898ページ
 有隣の子は、清助信次(一七三二~一八一四)。俳号を里隣といった。竹葉舎と号したのは、元翠が植えていた庭の竹に因むものであろう。この人は無耳庵嶺雲(れいうん)の門人になった。嶺雲は出羽(現秋田、山形県)の出身、支考、兎士(とし)の門下で、初め至元坊兎夕といった。支考は、先に述べたとおり、元禄の頃大橋を訪れ、『梟日記』や『西華集』を残した芭蕉の門人であるが、そのあと美濃(現岐阜県)を中心に、伊勢(現三重県)や北陸に強い勢力を築き、独特の作風と理論を説いて、一八世紀後半以降、全国的に広まった美濃派といわれる芭蕉門の一派を作っていた。兎士は伊勢に住み、義上園といった人。伊勢には芭蕉門の乙由がおり、その一派は伊勢派といわれ、兎士もその一人であったが、その流れをくむ人に春波、春渚(しゅんしょ)の兄弟がおり、まず春波が、後に春渚が小倉に来て九州で活動するが、嶺雲は、同じ流れにあって、春渚などより少し遅く九州に来て、福岡の住吉に庵住、北部九州に門人を持った。美濃派系の傍流といわれる。嶺雲編の書で、安永五年(一七七六)序『冬扇会(とうせんえ)』は、芭蕉追善の催しの撰集であるが、里隣はその百韻興行に参加し、俳句を手向けており、また大橋の人々が連句や俳句を寄せている。その人々とは、兎山(とざん)、猪路(ちょろ)、文器、交五、野涼、左工、倚山(いざん)、探史などである。同門下の小倉の座朝編、天明二年(一七八二)刊『俳諧ものよろこび』にも同じ顔ぶれの人々の句が見えている。
 安永九年(一七八〇)、里隣は嶺雲から文台を譲られた。文台とは、連句を興行する時、執筆(記録係)が座の前に置いて、連衆(連句を作るメンバー)が詠出する句を書いてゆく懐紙を置くもので、興行をさばく(連衆から出された句を吟味し、是非を判定して、興行の進行をはかる)資格の象徴のようなものであり、それを譲られることは、その技量が認められ、指導者として立つことを許されたことを意味するものである。その折の祝賀の連句が残されている。
 
ことし風雅の冥慮に叶ひ、嶮岨(けんそ)数里を隔てたる無耳庵の文台を附属し侍(はべ)る。さはまことに覚束(おぼつか)なき予が軍配ながら、林鐘(六月)末の一日、その俳筵(えん)のあるじ儲(まう)けして例の誰かれを招き、かつ恐れかつ悦ぶことを
道のその恩ありむすぶ清水にも里隣
麓(ふもと)涼しき月の友達兎山
無遠慮な犬に椽(えん)先覗(のぞ)かれて倚山
柄はみじかいが竹箒(たかばうき)也文器
此の様に毎日雪の降るものか 猪路
寐てもどろうと庵(あん)へ午時(ひる)から野涼
(短歌行・下略)

 
 これは、文台を授けられたことを披露した短歌行(たんかこう)(二四句からなる連句の形式)である。安武(現築城町)の花周、祗川(ぎせん)なども句を寄せている。里隣は、この地方にまで及んできた美濃、伊勢派俳諧の指導組織の中で、指導者として指名されたことになる。
 『日陰の草』と題した小冊子の句集がある。署名はないが、里隣の句を集めたものと思われる。全部で五二句の俳句が記されているうち、注記のある句があり、
 
虫干と言ふ日は暑し秋ながら(かゝ集ニ入)
木下(こした)闇も夜ルにして啼ヶ郭公(ほととぎす)(西花万句ニ入)
満汐(みちしほ)や千鳥も磯にみちて来る(此句越後へ短尺(たんざく)遣し)
こがらしのかたまり見たり寺の奥(西花万句ニ入)

 
とある。『西花万句(さいかまんく)』は嶺雲の撰集であるが、未見。「かゝ集」は、「加賀集」で、加賀(現石川県)の人の撰集の意味と思われるが、どういう撰集か特定できていない。「越後へ短尺遣し」という注もあり、ずいぶん遠い地方との交流がうかがわれて驚かされるが、次に述べるような加賀の千代女の里隣宛ての手紙もあり、交流があったのは確かなことと思われる。
 その千代女の手紙は、「冬の御消息青陽にはいし参らせ候……」で始まる返事で、「きぬさらぎのはじめ」(二月の初め)の日付になっていて、秋から病気がちでまだ本復していないことを告げている。そして、
 
    春興
  青柳やいつの用意に寝ては寝る
  何事かある身にはよき朧月
  山陰やわすれし比(ころ)のすみれ草

 
の三句を記しているが、三句ともに明和八年(一七七一)の序のある、千代女の句集『松の声』に見えるもの。千代女は明和六年頃から病気がちであったことが、中本恕堂(じょどう)編著『加賀千代女全集』に記されている。
 里隣はまた、美濃派道統家の宗匠八世風廬坊暮来(ふうろぼうぼらい)の訪問をうけている。
 
里隣貴老の旧交はさらにして、柳翠子(りうすゐし)が由縁(ゆかり)によりて風廬御坊を案内せしに主人をはじめ一社中のもてなし浅からざるを謝しまうす事にぞ
どれをどれと撰嫌(えりきらひ)なし草の花     文什坊

また、
前書略(まへがきりゃく)
まち受けて嬉(うれ)しや月も椽(えん)の先里翠
 萩から栄へも傘(かさ)に団蓙(わらふだ)風廬

 
 里翠は後述するように里隣の子、文什坊(ぶんじゅうぼう)も後述するが、豊前国上毛郡岸井(現豊前市)の俳諧宗匠。里隣と共通の知人柳翠の手引きで、風廬坊とともに訪れたものである。こんなことをきっかけとしてか、大橋俳壇は後に述べるように、文什坊の指導を受けることになったかと思われる。
 里隣はある年の三月半ば、近隣の青幽堂に遊んで句文を残している。その文によると、牛化坊という人に誘われて青幽堂へ行き、その窓から遠く七曲り、御所ヶ谷、求菩提(くぼて)、彦山の残雪を眺め、また安楽寺の晩鐘に散る花を見て楽しんだ。青幽堂が繁昌する商家で、夫婦親子の睦まじい中で風雅に志の深いことをほめているのは、人間倫理に根ざす俳諧を説く美濃派俳諧の教えに基づくものである。
 八〇歳を迎えた里隣に寄せられた祝辞を一つあげる。
 
竹葉老師は正風三代の主人にして目出たく八旬のよはひを寿(ことほ)ぎたまひけるに、予も其の風門に連らなれば、猶此の翁の長生をいのりいのり
其の杖のかぞへる春のいくつかも     路風拝