里翠・雨隣と美濃派

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 里隣のあとは、里翠である。里翠は、清助春信(一七七三~一八三〇)。春笑庵といった。この人は、先に出た文什坊の指導を受けたようである。年次は明らかでないが、「祇園社奉納之俳諧」という詠草が残されている。句の作者は、里翠、珍古、桃洞、鬼童、可笑、湖楽、曽仙(そせん)、烏柳(うりゅう)で、孤月庵(こげつあん)という人が点をかけているものである。孤月庵はさきに出た文什坊。俳号蘭推(らんすい)。豊前国上毛郡岸井手永の大庄屋で、中村忠右衛門といった人である。俳諧は美濃派の八世風廬坊暮来の門下、里隣とも交流のあった人であるが、里翠とはさらに関係を強め、里翠は正統美濃派の宗匠として指導する立場に立った。
 文化一〇年(一八一三)五月、文什坊は里翠に伝書を与えている。「伝書」とは、師匠が門下のうちその技芸について修業を積み、すぐれた段階に達したと認められる者に対して与える奥義、秘伝の類を記したもの。この文什坊の伝書は、朝暮園傘狂(ちょうぼえんさんきょう)(是什坊、美濃派道統六世)が書いた教えを伝えるものである。ただし、破損がひどく、全貌をうかがうことはむずかしいが、「質素を平生として修身斉家(まず自分の行いを正しくし、家をととのえるという儒教倫理の基本)の一助をむねとする俳諧」、「はいかいの平生なる事を知らば、聊(いささか)も媚(こ)びて高ぶることなく、素より世上の理屈を離れて今日の道理に遊び、虚に居て実を行ふ事忘るべからず」など、きれぎれではあるが、華美に流れない「質素」な生活を、儒教の人生上の指針である「修身斉家」のための一助と位置づけ、それに基づく「平生の俳諧」、「世上の理屈を離れ」、「今日の道理にあそぶ」、「虚に居て実を行ふ」という、この派の俳諧指導の基本が述べられている。
 さらに、同じ年の九月、美濃の道統家から里翠へ地域の俳諧を指導することを許す「定」と「判者式」が与えられている。「定」は、
 
定             求陽庵 里(翠)
右、俳諧増進の趣、道統家江申し達し、一連会頭并(ならびに)判者式、免許致し候間、已後(いご)、社中引接これ有るべき者也。
文化十癸酉(みづのととり)九月吉辰
孤月庵 文什坊 印 印

 「一連会頭」は連衆の指導者。「判者」は作品の優劣を判定する人。「判者式」は、
 
判者式
俳諧第二品  離法自由之地位
求陽庵里翠
応変論一軸并(ならびに)執筆伝、蕉家獅子門判者の奥儀也。依って其の器を見て付与せしめ畢(をは)んぬ。以後、当門の諸指揮せらるべき者也。常に函底に納めて可也。

 「応変論」、「執筆伝」は伝書の名。「獅子門」は支考門。岸井の宗匠であった文什坊蘭推が、美濃の道統家に申請して、里翠に一連会頭と判者を免許したものである。美濃の道統家とは、支考が、芭蕉を祖とし、獅子門と称して指導体制を作り、三世廬元坊里紅、四世五竹坊琴左、五世以哉坊(いさいぼう)二狂、六世是什坊(ぜじゅうぼう)傘狂、七世白寿坊信我、八世風廬坊暮来、九世友左坊卓路(以哉派、以下略)らが道統をついで、独特の作風と理論をもって、広く全国的に門葉を持った組織であった。里翠は、いわば本家の宗匠から大橋を中心とした連衆たちを指導することを認められたことになるわけである。
 文政九年(一八二六)冬、九州行脚をした友左坊は、大橋に来て、里翠のもとを訪れている。
 
  詞書略(ことばがきりゃく)
預かるも嬉しや雪の華の笠  春笑主人(里翠)
 笠脱ぐ軒も奥ふかき冬    友左坊
右は九国行(九州行脚)の杖を芳亭に寄せし折からの贈答也。
  丙戌(ひのえいぬ)冬         印 印

 
 また、懐紙に長文の詞書と句を残しているが、「此家や風雅においての旧家にして、其先元翠翁より有隣雅老に伝り、里隣への滑稽より当主里翠英士まで連綿として、是よし四代の相続にして、誠に目出たき風流の家」と称えている。
 では、里翠が指導した連衆はどんな人たちだったのだろうか。先にあげた「祇園社奉納」の人々がそうであるが、ほかに「名録」とある一枚の句稿がある。
 
 名録
木魚うつ撥子でたたく納豆哉桃洞
なげわたす橋のむかうも枯尾花鬼童
ささ鳴や飲煙(ママ)りのたつ薮の内里夕
夕日さす井筒のもとやみそさざい可来
古烏帽子(えぼし)着ながら掃(はは)く落葉哉秀紅
雪積むや寝ながら覗(のぞ)く庵の窓曽山
満潮にもまるる芦の枯葉哉曙雪
冬月や曇るにも風晴るるにもう柳
孫に午ひわ(ママ)せて行くや大根引里梅
掃除せぬは留守のか庵の石路(つは)の花珍古
莟(つぼみ)から其の名を得たり冬至梅春笑主人(里翠)

 「祇園社奉納」と重なる人もあるが、これらが里翠周辺の連衆であったと思われる。
 里翠が子供の元服のことを行事の飴屋の玉江家第七代宗徹に依頼したことがあった。
 
臘月中(らふげつなか)の一日に、玉江蓬洲主人の家風を学ばせんと予が世次(よつぎ)の元服を乞ひければ、思はずも気安く祝儀を調ひ給ひけるに
庵の膝に寄りて聞きけれ言の葉も     里翠

 
 この宗徹は、絵を村上東洲に学び、蓬洲(ほうしゅう)と号して作品を残している。俳名咲羅屋(さくらや)旭。宗徹の子宗寿は其景(きけい)と号し、生け花や俳諧をたしなんだ。其景は文政七年(一八二四)、弟の長四郎(号〓洲(ていしゅう))とともに宇佐に遊び、俳句を交えた紀行文「浜辺之細道」を残している。
 里翠が没した後は、清助政信(一八〇六~六七)が継いでいる。号雨隣、蓑笠庵。時期は明らかにできないが、美濃道統家宗匠の代理として行脚してきたという霞外坊(かがいぼう)の文章に、蓑笠庵雨隣を宗匠として推挙、その祝宴を開いたことを書いたものがある。昔、獅子庵先師(支考)が訪れた家の子孫である蓑笠庵雨隣は、俳諧の修行に努め、研修の功が著しいので、再三固辞したのを強く勧めて宗匠にしたというものである。
 雨隣は慶応三年に没したが、安楽寺墓地の墓には「月はともし松は琴ひき霊前参り」の句や宝屋喜六ら門人の名が刻まれている。