以六、青羊の俳諧

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 行事の堤半兵衛家は、古い地図によると長峡(ながお)川のそばにかなり大きな敷地を持っていたことが知られ、安政六年(一八五九)、藩主の郡内見廻りの折は家老たちの宿所を勤めている。連歌の項で出た堤孟伸の家である。この家に以六という人が居た。以六は、俳諧を小倉の了国(小倉藩士斉藤東四郎、椿(ちん)庵、士朗門)、木父(もくふ)(小倉の俳人妹尾少七、松菊舎、老圃(ろうほ)堂、渭水門)に学んだらしい。以六は、文政八年(一八二五)小倉に滞留して、了国、木父のもとにあった種々の俳諧の句文を写し取ったという。『以六遺筆夜雨集』(行橋市歴史資料館蔵、以下『夜雨集』と記す)六冊がそれである。以六は呉川あるいは娯川とも称している。
 文政七年か八年頃、八月一四・一五・一六の三日間、以六は友人の四溟(しめい)、鼠白(そはく)の三人で万年橋のあたりで月見をし、それぞれ「まつ宵集」(四溟編)、「名月集」(鼠白編)、「十六宵集(いざよいしゅう)」(以六編)という小さな句文集を編んだりしている。
 また以六は、玉江其景と今井祇園に遊んでいる。
 
    其景と友(共)に今井に遊ぶ。今井川を渡る。
  砂川や砂にもつかず秋の水
    今井祗園指て(詣てヵ)
  神の灯の昼は白けて虫の声

 
 この二句、「木点」とあり、木父の点をもらったものであることが分かる。
 村上仏山の『仏山堂詩鈔』三篇に、「柏木子」の別邸に招かれて、酒を酌み詩を詠んだことが記されている。その詩中の一句に「歌ハ桃青ヲ学ンデ、君ガ調古ク」とあり、注して「主人俳歌ヲ善クス」とある。この「柏木子」は柏木黙二のことと思われる。黙二は勘八郎直純、明治一九年(一八八六)没、行年八一。商家柏屋に生まれ、天保・嘉永の頃(一八三〇~五四)、子供役格などとして藩、村政にも関わったといわれる人であるが、山辺秋人(やまべのあきひと)の名で狂歌を詠んでいて、没後、狂歌集『ねざめの伽(とぎ)』が出版されている。ここにいう「俳歌」は、狂歌と俳諧を同一視したものであろう。
 裕福な家の人や子どもが俳諧や狂歌に遊ぶというのは、ごく普通のことであり、飴屋(玉江)、新屋(堤)、柏屋(柏木)も例外ではなかったのである。
 『夜雨集』は、了国、木父の手もとのものを写したのであるから、了国、木父の作品が多く写されているのは当然であるが、ほかに『熱田三歌仙』(暁台編、安永四年刊、『俳諧七部拾遺』所収)や『飛登津橋(ひとつばし)』(清風編、貞享三年刊、『俳諧七部拾遺』所収)所収の連句など、芭蕉や蕉門の句文が書き留められている。これは無論、芭蕉や蕉門の作風を学ぶためであったろう。また、行脚俳人が新しい作品をもたらすこともあった。越後長岡(現長岡市)の人で、江戸の井上成美門下の幽嘯(ゆうしょう)は、行脚の途次、小倉にも来たようで、了国や木父らと連句の座をともにしているが、ほかに陸奥白石(宮城県白石市)の乙二、名古屋の士朗、伊予(愛媛県)の樗堂(ちょどう)との一座の連句や、道彦、葛三らの作品が見えるのは、この人がもたらしたものかと思われる。同時代の風調を知る手がかりになったものであろう。こんな形で蕉風俳諧や当時流行の作風を学んでいたことが知られよう。
 『夜雨集』の文政八年から一四年後の天保一〇年(一八三九)の冬、大坂で蒿居(こうきょ)編『あしかぜ集』二編(行橋市歴史資料館蔵)が刊行されたが、その中に木父らの句とともに青羊という人の句が見える。
 
  指さした手もしめりたる鵜(う)舟哉      青羊
 
 この「青羊」については、『小倉市誌』(小倉市役所編、大正九年刊)には、行橋住、木父門で、堤半兵衛と記し、「〔小倉俳壇系図〕」(豊津町歴史民俗資料館・清柳家文書)には「新谷兵蔵」とある。「新谷」は屋号「新屋」によるのであろう。以六が青羊であるかどうかは明確でないが、同一人とすれば、文政八年頃、玉江其景と同じぐらいの二〇代半ばとして、『あしかぜ集』の青羊は四〇歳前後ということになる。