江戸幕府の文教政策

564 ~ 565 / 898ページ
 小倉藩の文教にふれる前に、江戸幕府の文教政策について述べる。
 徳川家康は慶長一〇年(一六〇五)、征夷大将軍を秀忠に譲ると、儒者林羅山を江戸に招き経史を講じさせた。その後、三代将軍家光は寛永七年(一六三〇)、羅山に金二〇〇両を与え、上野忍岡に塾舎および書庫を建てさせ家塾の充実をはかった。尾張藩主徳川義直は、羅山の家塾に孔子を祀る聖廟を建て「先聖殿」と称した。
 四代将軍家綱は寛文三年(一六六三)五月、旗本諸士の条目を定め、そのなかに「忠孝を励まし礼法正しく常に文道武芸を心掛け義理を専とし、風俗を乱す可らざる事」と教育の大切さを説いた。その後、五代将軍綱吉がことに儒学を重んじ、自ら経史を講じるとともに、たびたび聖廟を訪れ、聖廟を拡張して「大成殿」と名付けた。ここに至って、諸侯これに倣い領内に藩校を建て、儒学を奨励することになった。
 寛政九年(一七九七)一二月、幕府は聖廟および林家の学塾を召し上げ、以後「昌平坂学問所」と称し、それが昌平黌として幕府の学問所となった。昌平黌では幕臣のみならず諸藩の英才を受け入れ、各藩の藩校に対して大学院的な存在であったことは夙(つと)に知られている。
 藩校の開業を近隣にみると、長州藩の藩校明倫館の開業が享保四年(一七一九)正月、福岡藩の東学問所(修猷館)の開業が天明四年(一七八四)二月である。
 久留米藩は天明五年(一七八五)に学問所として開業し、天明七年に修道館と改名、さらに明善堂、明善館となった。熊本藩の時習館の開業は、宝暦五年(一七五五)正月の開業である。やや遠く鹿児島藩の藩校造士館の開業は天明二年(一七八二)である。
 こうしてみると、小倉藩の思永斎は宝暦八年(一七五八)に開業しており、福岡県下では最も古く、九州でも熊本藩の時習館に後れること三年、開業の時期は誇ってもよい。さらに小倉藩の藩校創設は、家法の礼法を遡れば孔子など先哲の言辞に至るわけで、礼法の教育など小倉藩独特の学風を知るべきである。