武芸文学を第一として疏略あるべからずの事 |
但文学は書を読むにかぎらず、此の儀心得るべし、其の外芸術は好み次第たりと雖ども諸士に不似合の芸術は遠慮すべき事。 |
元文四年(一七三九)五月、忠基は京都より朱子学者石川麟洲を招いて書斎頭に命じ、世子忠総(ただふさ)に儒学を授けさせるとともに、藩の英才増井玄覧(げんらん)などに同席を許した。これが後に思永斎としての発展をみるのである。
宝暦二年(一七五二)三月、四代藩主小笠原忠総は、父忠基から遺領を相続すると、一二月の代替の際、次のような文武の業を奨励する御条目を示した。
忠孝の道を修め文武の業を務め風俗正しかるべき事
忠総は、宝暦八年(一七五八)五月、小倉城三ノ丸に書斎「思永斎」を設け、麟洲を書斎頭取に命じた。「思永」の出典は、『書経』の巻二「人君の一身は乃ち万化の源なり、必ず兢々(きょうきょう)として其の慎みを致さざるべからず。其の身修りて其の思い永く、敢へて軽易苟且(こうしょ)を目前に取らず」による。
思永斎における教育内容、つまり「講習書目」(『旧豊津藩学制沿革』)についてふれると、
講習書目
詩、書、易、礼記、孝経、四子、左伝、国語、史記、漢書、後漢書、三国志、通鑑、家語、七書、老子、荘子、晏子、説苑、文選、文書軌範
詩、書、易、礼記、孝経、四子、左伝、国語、史記、漢書、後漢書、三国志、通鑑、家語、七書、老子、荘子、晏子、説苑、文選、文書軌範
となっている。これは天明八年(一七八八)に改定され、次の書目が加えられた。
儀礼、周礼、公羊、穀梁、爾雅(じが)、戦国策、二十二史、管子、列子、荀子(じゅんし)、韓非子、呂氏春秋、准南子、新序、風俗通、白虎通、太戴礼、鹽鉄論(えんてつろん)、文仲子、漢魏叢書、貞観政要、陸宣公奏議、大学衍義并補(だいがくえんぎならびほ)、楚辞、韓柳文、東坡文集、二程全書、朱子大全、象山緝要(しゅうよう)、伝習録、四十二章経、内経、
以上の講習書目によって、思永斎と呼ばれた小倉藩の初期藩学が、昌平黌に劣らない学術を学んでいたことを知り得るのである。思永斎の開設について、筆者は平成八年、小笠原文庫で次のような記述を発見した。
一 | 、小倉御学館の事 忠総公御代、宝暦七丁丑年春夏頃、石川平兵衛へこの度、御家中学問稽古所お取り立ての御詮議仰せつけられ候処、御たいそうの義につき、先ず当分その方居宅建て添え下し置かれ候間、有志面々引き立て候様、御前に於いて仰せつけられ候旨。翌戊寅の年御銀お渡しこれあり、手前普請にて本宅離れ別棟に稽古所取り立て書斎と申し、思永斎と申し、思永斎と名つけ申し候。 |
普請成就にて、その五月朔日稽古相はじめ申し候翌己卯の七月平兵衛京都に於いて病死す。その十一月増井十郎大夫(のち十右衛門と改む)へ稽古所引き請け仰せつけられ候、安永二年癸巳五月十五日十右衛門依頼御免。石川元兵衛(平兵衛伜)へ右跡仰せつけられ候。 | |
天明八年戊申三月、この度書斎地面お広め、武芸稽古場をも取り立てられ候旨、元兵衛へ仰せつけられ、右普請六月九日より初まり十二月十六日相済み翌正月二十二日より文武惣稽古相初まり、一統学館と相唱え申し候事。 | |
(『御当家末書』) |
この「小倉御学館の事」によって、小倉藩学の創設期の様相が判然としてくる。まず、石川平兵衛(麟洲)の居宅に、手前普請(自費)で稽古所を建てさせ、そこを書斎と呼び思永斎と名づけた。しかし、翌年麟洲が亡くなったので、増井十郎大夫(玄覧)を二代目の書斎頭取とした。玄覧が辞任した後、麟洲の倅石川元兵衛(彦岳)が継ぎ、彦岳によって書斎の拡張工事が行われ、武芸稽古所を設け学館と呼ばれるようになった。すなわち天明八年(一七八八)に開業となった思永館のことである。
思永館における「習読書目」は、寛政六年(一七九四)に至って、次のように改正された。
習読書目
孝経、四書、五経、小学、左伝、国語、家語、説苑、晏子、史記、蒙求、漢書、古文、文選、王代一覧、十八史略、後漢書、三国志、十三経、七書、韓詩、老子、荘子、列子、通範、日本書紀、文書軌範、楚辞、韓柳文、戦国策、荀子、呂氏春秋、太戴礼、鹽鉄論、大学衍義、貞観政要、二十二史
孝経、四書、五経、小学、左伝、国語、家語、説苑、晏子、史記、蒙求、漢書、古文、文選、王代一覧、十八史略、後漢書、三国志、十三経、七書、韓詩、老子、荘子、列子、通範、日本書紀、文書軌範、楚辞、韓柳文、戦国策、荀子、呂氏春秋、太戴礼、鹽鉄論、大学衍義、貞観政要、二十二史
彦岳による改革は、韓詩とか『日本書紀』を加えたことである。文化八年(一八一一)、対馬において朝鮮通信使を接待した彦岳の識見は韓人により称揚されたところであり、彦岳の先取改革によって藩学は隆盛を招いた。彦岳はまた学業を評価する「試験法」や点呼によって出席を点検する「日集簿」を作った。一定基準の成績が得られない者、出席不足の者を落第とする評価基準を設け、生徒に対する学業評価を厳しくした。しかし、彦岳の後をついで学頭となった彦岳の長子石川正蒙、ついで次子大池晋氏と、いずれも早逝がつづき藩学はいささか不振となった。