第七代藩主の小笠原忠徴(ただあきら)は、天保一四年(一八四三)九月、父忠固より遺領を相続した後、従来の思永館御条目を改定、学頭矢島伊浜(いひん)に厳しく学事を策新することを求めた。
そこで伊浜は『思永館御条目義解(ぎげ)』を著し、「習業書目」として孝経など九五部をあげ、「習業科条」を定め、試業をも改めた。伊浜は昼夜別なく学館に留まって改革を推し進めた。その期間は一〇年に及んでいる。その結果、多くの藩士が進んで学館に学び、数多の人材を育成した。もっとも、その学事は助教布施晦息(ふせかいそく)の補佐によること多く、ともに藩学中興の祖と仰がれている。伊浜はまた学館の孔子を祀った聖堂を修復、釈奠(せきてん)の制を確立した。