思永館における釈奠

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 思永館における釈奠は初期においては孔子の画像、後に孔子像が安置され執行された。「思永館蔵書目録」に釈奠および釈菜(せきさい)に関する文書が記録されており、思永館における釈奠の様相が判然と窺える。次のような文書である。
 
    儀注類
  公事根元一冊禁秘抄一冊
  年中行事一冊授受儀一冊
  林家釋菜記一冊御家法之書一冊
  明倫館釋菜記一冊江家次第一冊

 
 因みに萩藩明倫館では享保四年(一七一九)二月、藩主毛利吉元が「親しく明倫館に臨みて孔子の廟を拝し、学館を興起して大に人材を涵養せんとする趣旨を告げた」と告文を記している。つづいて式次第は「延喜式次第及び昌平黌釈奠に拠って其の儀を撰せしめ」(『長藩の文教と藩学』)とある。これらは小倉藩にも影響を与えたと推測される。
 思永館にも釈奠の式次第を定めた『思永館釈奠儀注』があったが幕末の戦乱で失われた。恐らく明倫館と同じく昌平黌釈奠に拠ったものと思われる。
 授業に対する謝礼は、授業料に該当する「束脩謝儀(そくしゅうしゃぎ)」という制があった。『旧豊津藩学制沿革』によると、
 
、維新前ハ入学ノ節、僅少ノ束脩ヲ其師家ニ行フ、而シテ毎歳末僅少ノ謝儀ヲ師家ニ納ムルノ習慣ナリ。

 
とあり、つづいて「但シ弘化二己巳年聖像ヲ学校ニ安置スルノ後ハ、入学及ビ年始ノ束脩ヲ聖像エ献スルヲ例トナス」とある。入学や年始のおりに孔子像を拝礼し、謝礼金を学校に納めたようである。