大詩会は春または秋に一回開かれ、講堂の中の柱に兼題が張り出され、詩ができると詩箋に認めて学頭に提出、一人ずつに茶と菓子が与えられた。さらに夜に入ってから呼び出され、入選者の詩は助教によって吟じられ盃を与えた。また、特に秀逸の詩にはお抱え絵師が詩に絵を添え秀逸者に贈られた。
詩会参加者の詩箋は、題ごとに集綴され、書庫に保存された。想像するに、宮中で新年に開かれる歌会始めのような厳粛な行事であったようである。講堂の両側には学館の教師が並び、時として執政(家老職)が出席(「龍吟成夢」『豊前史料集成』三所収)したと伝えられている。
小詩会は毎月一回の開催であった。当日の出席者は講堂の両側に列座し、各々作詩を終えてから詩箋に認め、学頭に提出して添削を受けた。作詩は五言絶句、七言絶句、律詩など一人一詩、秀逸の詩には朱筆で評が書き加えられ講堂に掲示された。
詩箋の一つを紹介する。題は「雪霽晩望」で、後に学頭となった増井敬之の七言絶句、安政年間の作詩である。
雪霽晩望 増井敬之
雪晴忽認好風光 雪晴れ、忽ち風光よきを認む
未見吟人来叩荘 未だ見ず吟人 荘を叩き来るを
只有寒川判銀界 只有り寒川 銀界と判る
半天昏鴉帰夕陽 半天昏く 鴉夕陽に帰るを
雪晴忽認好風光 雪晴れ、忽ち風光よきを認む
未見吟人来叩荘 未だ見ず吟人 荘を叩き来るを
只有寒川判銀界 只有り寒川 銀界と判る
半天昏鴉帰夕陽 半天昏く 鴉夕陽に帰るを
詩会は儀式的で、作詩は即席で認めたものであり、文学的に評価することは酷であろう。ただ、そうした詩会が学館で催されたことに意義があり、兵学に力を注いだ藩立学校に、そよ風のような詩会が存在したのである。