晦息のあと、学頭は安政三年(一八五六)六月に三宅義方(よしかた)、安政九年一〇月に篠原級長(しななが)、文久三年(一八六三)一月に増井敬之、慶応元年(一八六五)五月に近藤直寅と短期間に交代を余儀なくしている。
万延元年(一八六〇)一一月、小笠原忠嘉の急逝をうけて藩主となった九代藩主小笠原忠幹(ただとし)は文久二年(一八六二)九月、新たに御条目を達した。その御条目は、外国船来航に端を発した攘夷論の高まりのなかで、非常事態に備えた改正であった。顕著な例は、
一 | 、隠居たり共御軍役は相勤めるべし、年齢の者は息合などもこれあり、第一に一統の引き立ては相なり候義につき、文武御場所え折々罷り出る事。 |
と、老人にさえ軍役の覚悟を促していた。