布施晦息による人材育成

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 矢島伊浜を補佐した助教布施晦息(かいそく)は嘉永二年(一八四九)八月、伊浜の後を継いで学頭となるや、「今世の学者傲慢にして、自らは大人物のごとき妄想を抱いている。それでは聖賢の道を説くことができようか」と述べ、昼夜学館に留まって教育に全力を傾倒した。その成果として、西秋谷、吉雄菊瀬、島村志津摩、山口茂樹、入江東山、緒方梅苑など、幕末に活躍した数多の逸材をみることができる。
 晦息のあと、学頭は安政三年(一八五六)六月に三宅義方(よしかた)、安政九年一〇月に篠原級長(しななが)、文久三年(一八六三)一月に増井敬之、慶応元年(一八六五)五月に近藤直寅と短期間に交代を余儀なくしている。
 万延元年(一八六〇)一一月、小笠原忠嘉の急逝をうけて藩主となった九代藩主小笠原忠幹(ただとし)は文久二年(一八六二)九月、新たに御条目を達した。その御条目は、外国船来航に端を発した攘夷論の高まりのなかで、非常事態に備えた改正であった。顕著な例は、
 
、隠居たり共御軍役は相勤めるべし、年齢の者は息合などもこれあり、第一に一統の引き立ては相なり候義につき、文武御場所え折々罷り出る事。

 
と、老人にさえ軍役の覚悟を促していた。