小倉藩の武術について述べるとき、まず藩祖小笠原忠真の武功にふれなくてはならない。忠真の武功の第一は元和元年(一六一五)の大坂の陣、第二が島原の陣とされた。忠真は大坂夏の陣では父秀政、兄忠脩(ただなが)の二人が戦死、自らも身に数カ所の傷を負っている。その勇敢なるさまは、祖父家康(忠真の母は徳川家康の孫女福姫であり、父秀政に嫁いでいる)が二条城で膝下に呼び、忠真の傷を数え「これ吾が鬼孫よ」と諸侯に披露するほどに自慢であった。
鎌倉幕府では源頼朝の弓馬師範であった先祖の遺風もあって、江戸幕府においても小笠原家は重く処遇された。小笠原家に伝えられた軍麾(ぐんき)および軍配、鏡鞍は将軍家に献上されるのが習わしで、それが火災などで焼失されるや再び同じ物が作られ献上されている。将軍の権威として麾・軍配のもつ意味合いを理解すれば、小笠原家について、改めて存在の大きさに気づくのである。
さて、小倉藩の兵学は、思永館の創立以来、山鹿流と甲州流であり、海軍は明石流であった。
弓術は小笠原流、印西流、竹林流、日置流で、それぞの師家が藩立学校で教授していた。
馬術については、「旧豊津藩学制沿革」に「家法ヲ伝スル者ヲシテ教授セシム。藩立学校内ニ教場ヲ設ク」とあり、特に「家ニ伝フルニ非ス」とある。その意味は、藩主家の嫡子相伝であることを示したものである。
剣術は無限流、無天流、今枝流、新以心流、二天流、柳剛流、一刀流、真影流など、幕末農兵を率いて活躍した青柳彦十郎は新以心流であった。
槍術は将軍家光に槍術を披露した高田又兵衛が名を残し、宝蔵院流を伝えている。ほかに種田流、佐武利流が教授されている。
柔術は揚心流、制剛流、眼心流、一心流、高眼流、方円流が教授された。
水泳は当時「游泳」と呼ばれる古式泳法で、学制沿革に「藩立学校ノ外ニ於テ教場を設クト雖モ藩学校ノ提挙(館長)ノ監督ニ属ス」とある。ちょっと間違えれば人の生死にかかわる水泳について、学館の最高責任者を監督としていたことは注目される。生徒の人命尊重を第一に、責任の所在を明確にしたものであろう。武士社会は封建的で人命軽視と思われがちであるが、教育の場では人としての尊厳は守られていたのである。