幕末の小倉藩と長州藩との攘夷実行をめぐる確執は、慶応二年(一八六六)六月一七日、高杉晋作の「機先を制し馬関海峡を渡海しよう」との作戦から、長州藩の田野浦急襲によって戦闘となった。それから、和議が成立する慶応三年正月まで、両軍は一進一退の攻防戦をつづけたが、兵力と装備に勝る長州の優勢は否めなかった。さらに小倉藩は開戦を前に六月一一日、藩主小笠原忠幹を病で亡くしていた。小倉藩は藩主の死を秘匿(ひとく)して戦ったのである。
藩主に代わって小倉軍を指揮した島村志津摩は、最後の砦として金辺峠に陣を固めていたが、悲壮な覚悟で長州藩との和議を受け入れた。
慶応三年六月一日、忠幹の嫡子小笠原豊千代丸が家督を相続、豊千代丸は忠忱(ただのぶ)と名を改めた。小倉藩は藩庁を田川郡香春のお茶屋に置き、以後、さらに城地を豊津に移すまで小倉藩は香春藩と称した。