育徳館御条目

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 明治二年一二月二五日、豊津藩が触れ出した文武御条目(『旧豊津藩学制沿革』)は、次のようなものであった。
 
育徳館御条目
、文武教場を区別すと雖も両輪不可偏廃の義を目的とすべき事。
、文学は国体を明らかにするは勿論、義理を研究し、古今を推考し、身を脩め、事に処するの道を講習して忠孝の資と為すべき事。
、武学は射放撃剌の技業を修行して、心肝を正大にし、威武不可屈の気節を自得して、忠孝の資と為すべき事。

 
 右の条目に基づいて、さらに一三項目からなる細目が定められ、進級・登用の制が規定された。なかでも「文武未熟たりとも、忠孝の実行衆に秀る輩は登庸褒賞等これ有るべき候事」と、忠孝を重んじたことは注目される。
 さらに「小学校規則」を定め、年少者に対する小学教育について、学業基準を設けたことである。簡単に説明すると、現在の小学一年に該当する一級の規則では、「稽古要略、大統歌、孝経、四書、習書、数学、名頭、図画」の履修が決められている。小学三年に該当する三級では、「国史略 十八史略 元明史略 英仏綴字、同単語暗唱、算術(金位・加減・乗除) 習書(御誓文・告諭大意・公用文章)」と、英仏語が加えられている。
 四級で「英仏会話書取」があり、五級に至っては「英文典解講」と、今の中学上級の英語を学んでいる。近代教育の範を欧米に求め、開化教育による人材育成を意図とした育徳館教育は、以上紹介した「小学校規則」からもうかがい知ることができる。
 なお豊津藩は明治三年九月、建野郷三と山田寅吉の二人を選び英国へ藩費留学を命じた。建野は留学を終えてから大阪府知事、元老院議員、ついで米国公使となり、後に鉄道会社を経営し実業家として活躍した。山田はさらに仏国に渡りエコール・サントラル大学に学び、帰国後は東北の治水事業、韓国の鉄道建設で業績を残した。