学館経費

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 当初は藩立学校であったので当然ながら藩費が投入された。その額は「一周年米千八百三十三石余、金五千九百七十六両」を定額とし、その他臨時の修繕等は藩庫より支出された。明治三年一〇月朔日に定められた職員給与は、左記のような支給額であった。
一、校監一名年給米弍拾六石
一、司事一名年給米弍拾六石
一、用度三名年給米弍拾六石
一、司籍一名年給米拾石
一、属吏三名年給米拾石
一、筆生八名年給米八石
文学教員
一、都教一名年給米参拾参石
一、助教三名都教に準ズ
一、訓導師十七名年給米弍拾石
一、句読師二十七名年給米拾五石
一、習書師四名上年給米弍拾石
下年給米拾五石
武学教員
一、教導師四名年給米弌拾六石
(剣術・槍術・砲術・柔術)
一、教示四名年給米弍拾石
(転施砲・游泳・楽隊・算術)
一、教導師助十三名年給米弍拾石
一、教示助一名年給米拾石

 以上の給与は、学館の上席職員でも日常生活が支えられる程度の薄給であったことが察せられる。その苦しい財政事情のなかで、教育に必要な高価な英語辞書や参考書を購入しており、藩の教育に対する意気込みが窺える。
 ところが、明治四年(一八七一)七月、豊津藩は豊津県となり、さらにその年の一一月、豊津県は千束県・中津県・企救県を含めて統合され小倉県となった。