明治九年一〇月二九日、明治政府に反対する旧秋月藩士が萩の前原一誠の挙党に呼号し、豊津の一部士族(杉生十郎のほか)を頼って豊津へ徒党を進めた。秋月党の宮崎車之助は育徳校に陣取り、入江校長に盟書への署名を求めた。しかし、これを阻止しようとした入江は悠然として墨をすり、あるいは宮崎に議論を持ちかけて時間の経過を待った。その間に小倉鎮台が豊津に到着、豊津士族の編制した警備隊と合流し育徳校を中心に秋月党との間に激しく銃火を交えた。交戦は五時間に及び、秋月党は惨敗し一七名の戦死者を残し豊津を去った。この時の学校の被害は甚大で、三八日間の休校の止むなきに至った。なお、秋月党の戦死者は豊津・甲塚の共同墓地に葬られた。
こうした反政府の立場をとる不平士族の反乱は、熊本の「神風連の乱」につづき、翌一〇年の西南戦争で頂点に達したが、政府は多大な犠牲を出しながら鎮圧した。とはいえ、「神風連の乱」では、熊本県大参事であった豊津士族の小関敬直が斬殺され、西南戦争では小倉鎮台へ出仕した豊津士族が多数戦死している。多くは藩校出身の未来ある若者であったことを忘れてはならない。