県立豊津中学校

579 ~ 580 / 898ページ
 育徳校は明治一二年九月九日、福岡県立豊津中学校となった。当時の校長は入江淡。その後明治一四年四月、県会議員をしていた入江は公務多忙を理由に辞任、八隅正名が校長となるが、明治一六年四月八隅は辞任し、再び入江が校長に復職している。
 ところが明治一九年四月、勅令第一五号によって、中学令が改正され、県立中学校は一県に一校と定められた。福岡県では脩猷館中学校のみが存続を許され、豊津中学校は廃止の方針であった。そこで、豊前六郡の有志総代入江淡・中川三郎・桝見茂平は、勅令一六号による経費自己負担の諸学校通則により尋常中学校として豊津中学校を存続させることを考えた。
 その経費自己負担の財源は、その多くを旧藩主小笠原忠忱に寄付を仰ぐ以外に方法はなく、入江淡と中川三郎はたびたび上京し小笠原家に嘆願した。ことに三郎は忠忱の侍読鎌田思誠の三男であり、また県会議員として豊前育英会の設立に関わったことから、小笠原家よりの寄付金を育英会で管理する方策をとり学校の維持存続を目指した。ところが、育英会副会長の小沢武男(陸軍中将)は、陸海軍士官生徒に適する学力と、育英会の会計監督のため有力者の就任を基金寄付の条件とした。そのため三郎は、後には県政での活躍を断念、中学校書記・舎監として生徒の訓育に当たった。
 明治三四年(一九〇一)五月、豊津尋常中学校は校名を福岡県立豊津中学校とし、この年より県費負担により維持されることになった。藩校育徳館はわずかな年月で私立育徳校となり、さらに尋常豊津中学校として、小笠原家の援助を多として郡民の負担で存続を図ってきたが、その苦労は漸く報われたのである。