第六節 大橋洋学校

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 明治三年一〇月二〇日、豊津藩は仲津郡大橋村下正路の御茶屋に洋学校を開設した。御茶屋は藩主が廻郡のおり休息したり宿泊する施設であったが、普段は郡内に住む藩士の子弟や学問を志す郡民のために教場が設けられていた。例えば、安広紫川(通称一郎)の小伝に、「元治元年、藩主小笠原侯之召還し、仲津郡大橋村御茶屋と称する官舎に居らしめ、普く子弟を集めて教授せしむ。遠近諸国より亦笈(きゅう)を負ひ来り学ぶ者多し、藩主与ふるに祿を以てす、先生固辞して受けず」とあり、藩の公立学校に準じた教場が設けられていたことを示している。
 豊津藩が大橋の御茶屋に洋学校を開設した背景として、教育機関を設置するに相応しい自然環境と洋学を許容し得る雰囲気があったからであろう。