ファン・カステールの雇用契約

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 豊津藩とファン・カステールとの雇用契約は約条書として、藩庁の渋田見大属とカステールの間で明治四年四月、東京で締結されている。その約条内容は次の通りである。
 
    豊津藩庁ノ命ヲ奉ジタル渋田見大属ト
     和蘭人「フハン・カステール」トノ約条書
第一条第二筆ノ者即チ「カステール」ヲ云、学校英仏語学ノ教師タラン事ヲ、初筆ノ者ト即チ大属ヲ云、約条セリ、来藩ノ上ハ学校課大属ト諸事相談スベシ。
第二条第二筆ノ者居宅ハ豊津藩ヨリ用意スベシ、其ノ外自身入用ノ品ハ、悉皆二筆ノ者自分コレヲ調フベシ。
第三条第二筆ノ者ヘ、月給ハ一ケ月百七十両ヅツ月末ニ渡スベキ事。但シ日本通貨ノ事。
第四条此ノ約条ハ明治未年五月八日、即チ西洋千八百七十一年六月二十八日ヨリ、来ル申年五月八日、即チ西洋千八百七十二年六月二十八日迄一年間ヲ期トスベキ事。
第五条若シ豊津藩ニ於テ差支出来致シ、此ノ約束ヲ期限前ニ廃スルトキハ、右残ル期限マデノ給料ヲ第二筆ノ者ヘ相渡スベキ事。
第六条此ノ約条ヲ更ニ延期スルヤ否ヤハ、期限一ケ月前ニ第二筆ノ者ヘ告知スベシ。
第七条此ノ約条ヲ第二筆ノ者ヨリ廃スル時ハ、職務ヲ執リシ日迄ノ給金ヲ払フベシ。
第八条第二筆ノ者、病気ノ節、三十日ヲ過ギナオ全快ノ見込ミ之ナキトキハ、此ノ約条ヲ廃スベシ。然ル時ハ東京迄ノ旅行ノ入費ヲ豊津藩ヨリ出スベシ。尢モ給金ハ廃約ノ日マデ払フベシ。
第九条此ノ度第二筆ノ者、豊津藩迄旅行ノ入費、ナラビニ東京迄帰途ノ入費ハ藩ヨリ払フベシ。
第十条第二筆ノ者職ヲ怠リ、酒色ニフケリ、放蕩ノ所業アル時ハ、此ノ約条ヲ廃スベシ。
第十一条第二筆ノ者、学用ニ付テハ、豊津近傍ノ他許容タルベシ。其ノ余、ヨンドコロナキ外出ハ学校課大属ヘ談ジ申スベキ事、生徒ハ学校課大属ヨリ取極ル者ノミヲ教授スベシ。
第十二条宗旨ノ儀ハ教示スベカラズ。
第十三条第二筆ノ者、商売或ハ外国貿易筋ノ斡旋一切スベカラズ。
右十三ケ条ノ趣、此ノ度東京ニ於テ取極ム。
明治四年辛未   月 日 渋田見大属 印
千八百七十一年  月 日 フハン・カステール

 
 この約条書は、小笠原文庫所蔵の草案であるが、カステールは豊津藩と雇用契約を結んでから、翌六月七日に江戸藩邸の学問所に出向き、二木政祐、藤田弘策、野沢勝太郎に対し英語を教授している。場所は特定されたわけではないが、神田橋藩邸には建坪七七坪の学館出張所があった。
 藩主小笠原忠忱は明治三年五月、侍読の鎌田思誠に伴われ参朝のため沓尾から出航しており、六月下旬には東京藩邸に着いている。忠忱は一時期、二木政祐らとともに英語を学んだとも伝えられており、のちに英国に留学したことからも否定できない。