明治四年(一八七一)九月一日、カステールは二木政祐、藤田弘策、野沢勝太郎と共に藩の汽船「大有丸」で品川港を出航し、海路沓尾へ向かった。九月一二日沓尾に着いた一行は船内で二泊した後、行事西町の飴屋玉江彦右衛門の倉庫を改造した居宅に落ちついた。
カステールの居宅近くには、藩から差向けられた警備員と身辺を世話する役人が住み、住民に対しては「諭文(さとしぶみ)」によって、欧米人に危害を加えてはならないと諭した。カステールは恐らく徒歩で、行事西町の居宅から中津街路に出て長峡川の橋を渡り、大橋の洋学校へ通ったのであろう。
二木政祐の子孫の伝えによれば、カステールはロッテルダムの市会議員をしていた貴族の子で、ロッテルダムで専門学校に学び二四歳のとき来日。日本で友人と貿易会社を設立したが、友人が死亡し会社は倒産した。その後、兵部省に雇用され、翻訳および語学教育に従事、さらに豊津藩に雇用されたのである。