黒板による教授法

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 洋学校の授業内容を伝える資料はないが、カステールは黒板(当時は塗板と称した)を使用したと伝えられている。『豊津中学校沿革』にも塗板と記されているので、多分カステールが洋学校で使った黒板の名残の言葉として記録されたのであろう。
 黒板はヨーロッパで発明され、それが学校の授業で使用され教育効果をあげた。一八二〇年代に米国の士官学校であるウェスト・ポイントの授業で黒板を使用し始めたとする歴史を知ると、カステールが母国オランダで学んだ専門学校においても、黒板の使用は一般的であったようである。
 日本での黒板の使用については、大学南校の教授となったスコットが、明治五年(一八七二)に開校した師範学校で使用し始めたと伝えられている。しかし、カステールがほぼ同時期に大橋洋学校で黒板を使用したことは、教育史の上でも画期的なことであった。当然ながら、カステールから英語を学んだ数学教師でもあった筧昇三が幾何算術に使用したことは間違いなく、以後育徳校でも使用されたことを『豊津中学校沿革』で知ることができる。
 明治四年一一月、豊津県は廃止され小倉県に統合された。洋学校は、明治六年四月、閉鎖となり、カステールと生徒は豊津の育徳館改め私立育徳校へ移った。そして雇用更新は、明治六年四月に明治五年一一月八日に遡って小倉県七等出仕平井淳麿(小左衛門改め)とカステールとの間で調印された。その後、私立学校となった育徳校の財政的な事情から、明治六年一一月八日をもって雇用契約は更新されず、カステールは豊津を去った。