カステールの事業とその門下生

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 豊津を去り上京したカステールは、どのような経緯か分からないが、明治八年(一八七五)七月に文部省が刊行した『小学修身口授』を含め、総計一一冊の翻訳書を出している。それらを列挙すると、『独逸農事図解草稿』、『学室要論』、『教師必読』、『童女筌巻一』、『彼日氏(ページシ)教授論』、『童女筌巻二』、『具氏仏国史上』、『具氏仏国史下』、『百科全書戸内遊戯方』、『百科全書体操及戸外遊戯』である。
 これらカステールの翻訳書は、主として小学教師の指導書として使用された。教育学の唐沢富太郎氏(元東京教育大学教授)は著書『明治古典叢書』のなかで、カステールの訳書を高く評価し、次のように述べている。
 
 本書は、アメリカ人ノルゼントの著書Teachers Assistant(1859)を、一八七三年版によってオランダ人ファン・カステールVan Kasteelが訳したものである。
 この書は、朋友から教授の方法に関することについて箴言訓話を請求されて著述したもので、その序において「学校ニ在リテ行フベキ義務ト学校中演習ノ方法トニ就テ多少解シ易キ書籍ヲ作ルハ衆人ノ為ニ最モ有益ナルベキヲ想起シ是ニ於テ此書ヲ編輯」したと述べている。(中略)もちろんこの書に書いてあることは、必ずしも採用すべきものであるというのでなく、教師がただこれを参考にすべきものであって、教師自身が更に進んだ意見をもち、学校の管理法および教授法に関して進めて行くことが出来れば幸いという意味のことを述べている。(後略)

 
 カステールの翻訳書について、一部の研究者が誤訳が多いと酷評する向きもある。それはカステールの責任というよりも助手として協力した筧昇三の力量不足、あるいは米一〇〇俵で知られる長岡の小林虎三郎の校閲に問題があったからで、訳者を責めるのは酷ではなかろうか。
 明治初期のある時期、カステールが翻訳した教育法に関する書物が、新任教師のいわば入門書ということで重宝されたのは事実であり、それを忘れてはならない。
 小笠原文庫が所蔵する筧昇三の履歴によれば、彼は嘉永四年(一八五一)正月の生まれである。「慶応二年十月より明治元年一月まで江戸に於て旧幕臣小笠原甫三郎・桃井左右八郎等に就き文武学術を修む」とあり、つづいて「明治二年より同四年三月まで長崎県官立学校広運館に於て英語数学を兼修む」とある。明治四年より同六年一一月まで大橋洋学校に数学教師として勤務、その間カステールに英語を学んでいる。
 筧昇三は、カステールが豊津を去ってから間もなく彼を追って上京、カステールを助けて翻訳事業に参加した。筧の他、草野信吉、伊東次郎もカステールを追って上京している。洋学校では筧と伊東(長崎広運館の出身)はともに数学の教師でありながら、カステールに英語を学んだことから察すると、両人はカステールをよほど慕っていたのであろう。筧は明治一一年一一月九日、カステールの最期を見守った一人である。
 筧はその後、陸軍教導団に勤務し、さらに群馬県で中学教諭として就職。明治二三年四月より郷土に帰り、再び豊津中学の教壇に立ったが、わずか二カ月後の六月二日、急死した。
 大橋洋学校は短い歴史ながら、日本の近代教育史に名を留めるカステールと、彼に協力した筧昇三の業績を銘記すべきである。この二人の協力によって、近代教育の実践面における扉が開かれたといっても過言ではない。
 またカステールに学んだとする岩垂邦彦は、工部大学(東京大学工学部の前身)を卒業してから米国へ渡り、エジソンに電気機器を学び、大阪送電会社の技師長として招かれ日本に帰国した。岩垂は、米国では主流であった直流発電ではなく、送電コストの安価な交流発電を採用しエジソンから破門された。のちに己の過ちに気づいたエジソンは、エジソンアソシエーションの玄関ホールに岩垂の肖像画を飾って彼の功績を顕彰した。大阪送電を退職した岩垂は日本電気(NEC)を創業、まさに電業の先覚者となり、大橋洋学校の存在をも不滅のものとした。