疫病と信仰

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 北九州地方は関門海峡をひかえた交通の要路であったため、古来より伝染病の多発地帯とされた。
 史書にも疫病が「鎮西より起こりて京師に至る」(『日本紀略』)と記され、流行の疫病がたちまちのうちに全国に広まったことを記している。
 中世以降、外国人の渡来が盛んになると、長崎や博多から京へ向かう旅人は、天候不順でしばしば関門海峡で足止めされた。そうした地理的要因により、北九州地方では伝染病が大流行した。
 医療が未熟なその頃は、病除きの信仰が一般に行われ、小倉・足立山の妙見社、旧企救郡に多い天疫神社など、枚挙にいとまがない。仲津郡では今井祇園で知られる須佐神社が、天暦年中(九四七~五七)における疫病の流行を背景として、妙見社の創建をみたと神社の由緒書は伝えている。
 行橋市内の天疫神社は、今は清池神社と呼ばれている矢留の産土神(うぶすながみ)が有名で、元禄一五年(一七〇二)には、藩主小笠原忠雄が江戸での疫病平癒を祈願し、代参の使者を差し向け、のちに藩主自身が参拝している。
 近代の記録では、安政二年(一八五五)四月、時の藩主小笠原忠嘉が病魔退散の祈願のため、島村志津摩を今井の大祖神社(須佐神社境内社)に代参させ、数十日後に忠嘉の病気は平癒した。そのため、志津摩を含む一一名の者が社殿前で流鏑馬を執行し、報賽(ほうさい)の趣旨を書いた横額を奉納した。
 疫病に対する知識が乏しく、施療もままならぬ時代においては、藩主から庶民まで病気平癒を神々に祈った。霊験あらたかな疫病神、牛頭天王の祭りである祇園祭は、疫病封じの祭りとして盛大に行われた。