藩に仕える医師を官医と呼ぶが、官医は医療のほか間接的に医療行政を司った。組織上は郡奉行を経て大庄屋の管轄に置かれた郡医を指導し、農民の衛生思想の普及に務めた。
小倉藩の官医を語るとき、その第一に挙げられるのは西一鴎(いちおう)である。一鴎は小倉城に入城した小笠原忠真が肥後から招いた儒医で、一鴎の父友鴎(ゆうおう)は明国に留学し、帰国してから正親町天皇および御陽成天皇に奉仕して典薬頭となった人物である。
忠真は正保元年(一六四四)、一鴎を招聘するに当たり企救郡貴志村に采地五〇〇石を与え、後には企救郡小熊野村に薬草園を創設させた。一鴎の施療は藩主にとどまらず、小伝に「遠近の病者来て治を乞ふもの門前市を為し」といわれたように、農民や町人までが一鴎の施療を頼った。一鴎のあと、嫡男の西清庵、その第二子西玄東と、西家は代々侍医として、あるいは藩校の教示として仕え小倉藩において医家として重きをなした。
次に著名な儒医は香月牛山である。万治元年(一六五八)に筑前の植木(現直方市)で生まれ、貝原益軒および鶴原玄益に医を学んだ。当初は中津藩に仕えたが、京へ出て数多くの著書を世におくり、小倉藩に招かれてからも『遊豊司命録』を著している。
もう一人、土屋昌英も著名な官医であった。父道竹は中津藩小笠原長圓の侍医であったが、昌英は京に遊学し医を渋江松軒に学んだ。また儒学は物茂卿に従い物下十哲と称し「名声天下に顕る」と伝えられている。のち藩主忠雄が小倉に招き、侍医および侍読として二〇〇石を与えた。
香月・土屋両家の子孫は、いずれも官医として小倉藩に仕え、西家の子孫と共に小倉藩の医業に多大な業績を残している。「旧豊津藩学制沿革」によれば、弘化年間(一八四四~四八)、思永館に医学講習所を設置しており、西家の子孫を始め時の官医が医師養成を行った。小倉藩が主体的に郡医を養成、郡民の医療面に於ける意識向上に務めた顕著な例である。