小倉藩における郡医および施薬

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 文政七年(一八二四)八月二七日の『中村平左衛門日記』『以下、『平左衛門日記』と記す)に、無医村であった呼野村に、官医二見玄節の弟子であった畑泰玄を居住させたとする記述がある。封禄で生活が保証されていた官医が弟子をとり、結果として医師を養成し無医村へ医師を派遣している。『平左衛門日記』および「国作手永日記」から、安政年間(一八五四~六〇)における京都・仲津両郡の手永頭取医を見ると、次の通りである。
 
  京都郡郡医惣頭取  青木玄周(与原村)
  京都郡黒田手永   光川周英(黒田村)
  京都郡久保手永     正林(行事村)
  京都郡延永手永   菅周朔
  仲津郡国作手永   福田芳洲(大橋村)

 
 また氏名を見出す郡医は、次の通りである。
 
  京都郡鋤崎村    久保永輔
  仲津郡大橋村    進泰造
  仲津郡国分村    内田玄明
  仲津郡綾野村    加来東渓

 
 村上仏山の『仏山堂日記』には、眼科医定村玄甫に関する記事が出ている。定村家は代々医家だったようであるが、玄甫は上毛郡薬師寺村の恒遠塾に医術を学んでいる。なお、庄屋日記などに出てくる医師には氏が書かれておらぬことが多く、それらについては記載を省略した。
 小倉藩では、流行病の際、「用心薬」と称して農民に施薬を配付、家畜に対しても牛馬薬を配付している。天保八年(一八三七)五月の例であるが、次のように施薬を実施している。
 
    御施薬 一〇〇、〇〇〇貼(ちょう)
  企救郡     二三、一五八貼
  田川郡     二一、七二九貼
  京都郡     一一、四四七貼
  仲津郡     一五、二七六貼
  築城郡     一一、八九九貼
  上毛郡     一二、八五〇貼
  御屋敷御領分   三、六四五貼

 
 この施薬は、幕府が出した天保八年四月の「御薬方触書」に基づく施薬で、その触書は幕府の官医望月三英、丹波正伯の二人によって書かれた薬方によるものである。その薬方の一部を紹介する。
 
時疫流行候節、此薬を用ひて其の煩(わずらい)をのがれるべし
、時疫には大粒なる黒大豆をよくいりて壱匁、かんぞう壱匁、水にて煎じ出し、時々呑てよし(右『肘後備急方』に出る)
、茗荷の根と葉をつき砕き、汁をとり、多呑てよし、(右『肘後備急方』に出る)
、時疫には、牛蒡をつき砕き、汁をしぼり、茶碗半分づつ二度飲みて其上桑の葉を一握ほと火にて能く炙り、黄色になりたる時、茶碗に水四盃入れ、二盃に煎じて、一度飲て汗をかきてよし、若桑の葉なくは枝にてもよし(右『孫真人食忌』に出る)
、時疫にて、熱殊の外つよく、きちかいのごとく騒き苦しむには、芭蕉の根をつき砕き、汁をしぼりて飲てよし(右『肘後備急方』に出る)

 
 ここで示された薬草類は、黒大豆とか茗荷、牛蒡や桑の葉など、誰でも入手可能な植物であり、その薬方によって郡民の多くが疾病に対処することができた。ただし、その効果については、やや疑問の残るところである。
 安政六年(一八五九)七月に、島村志津摩が出した御触書は、流行の暴瀉病(ぼうしゃびょう)(下痢症状)について、きわめて具体的な治療方法を示している。
 
 此度流行病の暴瀉病は、その療法方種々これある趣に候得ども、そのうち人の心得べきは、是を防ぐとて身を冷す事なく、大酒大食を慎みその外なれ難き食物を一切給し申すまじく、左に記す芳香散を用るべし。
、もし此の病を受け候はば早々寝床入り、惣身をあたゝめ、生姜の絞り汁をあつき湯に入れ呑むべし。又はにんにくをつきたゝきて水にて呑もよろし、左に記す回生散を用いるべし。
、吐瀉(としゃ)甚しく惣身冷る程に至りしものは、焼酎壱弐合ニ龍脳又ハ樟脳壱弐匁入、あたゝめて木綿の切にひたし腹ならびに手足にすり込み、芥子泥を腹手足に半時程づつ度々張るべし。間ニ合わぬ時はからしの湯にて蒸すべし。又は蓼(たで)を湯で木綿に包み、その汁にて惣身のあたゝまる迄蒸すべし、又ハ温石にても腹ならびに冷えた所をあたゝむべし。
  芳香散之方
桂枝 萱智 乾姜(かんきょう)
右三品当分粉末にして壱度ニ目方壱匁づつ用いる。
  回生散之方
蕾香壱匁、陳皮壱匁、白朮壱匁、乾姜五分、
甘草弐分、人参弍分
右六味粉末、壱度に壱匁づつ用いる。
 芥子泥之方
からし粉、うどん粉
右二味、当分あつき酢にてかたくとき、木綿の切にのばし張るべし。
但、右之病ハ軽るからず事に候得ば是のみにて、何れも治す事にあらず、右之手当致し置き早々医師を迎え療治を受けるべし。
未七月

 
 その頃、富山の売薬屋が通称「入れ薬」を各家に置き、その代価が莫大な金銀の他藩への流出となったため、島村は他国人の売薬を禁止し藩の施薬を無料にした。しかし、数量が限られていたので、流行の疫病に効果的な薬方については緊急に触書を出し対応させたのである。