江戸時代に流行った疫病に関する記録を見ると、病名の分かっているもので多いのは漁村に流行ったコレラ、全村に流行った疱瘡(天然痘)、麻疹などがあげられる。どの疫病も人々が恐れていた病であるが、本稿では疱瘡にかかわる予防医療としての種痘について述べる。
我が国における種痘は寛政元年(一七八九)、秋月藩の官医緒方春朔(しゅんさく)により人痘種痘(英国の医師エドワード・ジェンナーによる種痘は、牛痘を用いたもので牛痘種痘と呼ばれている)を実施したことに始まる。春朔は寛政七年(一七九五)、『種痘必須弁』を出版し、種痘の普及を世に問い、我が国における種痘術の開祖となった。
小倉藩においては、安政元年(一八五四)六月、官医吉雄蔵六に種痘法伝授が命じられ、吉雄の自宅に郡医を集め伝授が行われた。京都郡延永手永に属する鋤崎村の庄屋高瀬喜左衛門は、安政六年(一八五九)正月二日の日記に、「種痘種子取りに伝平・平蔵殿両人長木・吉国両村、小児召し連れ前田より検地の様参り候事」とあり、種痘種子を得るため子供を用いたことを記録している。つづいて正月九日、「種痘世話方、長木村へ伝平出張の事」とあり、さらに正月一六日にも「伝平行事より中津熊、これより二塚村へ種痘世話方え出張の事」(いずも『未歳公私諸用日記』による)と記している。谷村の庄屋高瀬伝平および草野村庄屋草野平蔵の二人が、種痘世話方として長木村、吉国村、行事村、中津熊村、二塚村へ出張し種痘を実施していたことを伝えている。種痘世話方に同行した郡医については記録がないが、村に居住する郡医が実施したものと推定される。