豊津藩における医療行政

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 明治二年(一八六九)一一月、豊津藩が発足、翌年正月に開校した藩校育徳館で医学講習が始まった。教示の資格で講習を担当したのは、西春庵、教示助は侍医の山上縄菴(しょうあん)、篠田蒼安(そうあん)、平田瑞庵、内海意叶(いきょう)の四人である。
 西春庵は上毛郡薬師寺村の恒遠伝内の四男で、文化六年(一八〇九)一二月の生まれ。一二歳で広瀬淡窓の咸宜園に学び、選ばれて筑前の亀井昭陽に学んだ。二四歳の時、長崎に行き蘭医に学び、さらに京に出て名医を訪ね研鑚を積んだ。その後、望まれて官医西菫庵の養子となり、侍医を勤めた。
 教示助の平田瑞庵は、摂津の華岡随賢に外科術、さらに京に出て竹内玄同に蘭医術を学び、藩主の番医を勤めた。戊辰戦では奥羽出兵の平井隊に属して秋田戦線を転戦、官軍野戦病院に勤務し、凱旋後に藩校の教示助を命じられた。
 以上二人の経歴を紹介したのは、二人が何れも蘭医に学んだ経歴を有するからで、したがって豊津藩における郡医も蘭医に重きをおいたと推察されるからである。この点から育徳館における医学教育は、医師養成ということよりも、漢方医を主とした郡医に対する近代医(蘭医)への転換教育だったとみて差し支えあるまい。
 京都・仲津両郡について、郡医として帯刀を許されていた者について、村名を掲げる。
 
  京都郡下稗田村(眼科医)定村玄甫
   〃 下黒田村光川周英
   〃 福丸村安田雲斎
   〃 行事村菅秀朔
  仲津郡松原村竹中養元
   〃 大橋村福田楽三
   〃 国分村内田玄明
   〃 花熊村田中養淳
   〃 崎山村清田玄庵
   〃 光富村進秀斎
   〃 真菰村福田良山

 
 以上一一人の他、医を業としていた者も多数あり、仲津郡松原村の小原玄啄もその一人である。