医家小原氏による「虫下し薬」の普及

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 小原玄啄の家では家伝の「虫下し」を製造、それを近郷の農家などへ頒布したことが知られている。『保寿圓』という虫下し薬で本院の他特約店となった薬屋でも販売され、遠く大阪でも特約店があった。
 当時の農家は作物の肥料として糞尿を使っており、そのため寄生虫が蔓延し除去のため「虫下し薬」が常用された。治療にあたる小原氏の医堂は松原の他、元永と大橋に分院を置き、いずれも患者であふれ、対応に苦慮したそうである。
 小原氏の祖は、小倉藩の家老宮本伊織の弟小原玄昌である。玄昌は典薬寮(宮中の医師)において法眼の地位を得た人物で、その子の玄格が秋月長門守の侍医を勤めたあと、家老職にあった宮本氏を頼り豊前に居住した。
 玄格のあと昌格、玄意、玄哲、玄昌とつづき、玄昌が仲津郡松原村から養子守利を迎えた。守利も当然医術を修業し玄昌を名乗った。
 守利の子、玄琢の時代は幕末維新の動乱の時代で、玄琢は父親の出生地である松原へ医堂を移し、松原村における医家小原氏の発展をみるのである。
 同家に伝えられた江戸時代の医書には毛筆による写本などがあり、医学研究への真摯な家系が察せられる。
写真15 写本『傷寒五種伝』
写真15 写本『傷寒五種伝』(行橋市小原家所蔵)

 小原氏は家老宮本家の一族であったが、そうした家門のつながりを医業に利用することなく、長い藩政時代を通じ農民相手の予防医療に従事したことは特筆に値する。
 例えば農民の必備薬だった虫下し薬の製造などである。玄琢は家伝の虫下し薬「保壽圓」の普及に努めた。虫下し薬は秘伝のため、妻子は夜を徹して製薬に従事したと伝えられている。