外科医療の具体例

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 藩政時代の外科医療について、当時の記録から推察すると、豊前地方には華岡流の外科術がもたらされていたことを知ることができる。小倉藩士の岡出衛俊治という人物の経歴を記した文書のなかに、
 
、廿八九の頃より病気起り、文武その外諸事修行出来ず残念也、よくなり又悪くなり、四十歳に至る迄痼疾に臥す。その始めより医者に掛る事左の如し。
 蔵田篤庵、吉雄祐卓、平田栄庵、筒井玄隣、再び平田栄庵、量田良輔、篠田蒼庵、何れも種々手を尽せ共全快にならず、入湯の後、竹中謙随の療治にて平癒す。

 
とあり、華岡流の外科医であった築城郡松丸村の竹中謙随のもとで手術を受け全治したことを記している。
 謙随の学んだ華岡流とは、華岡青洲の外科術のことで、青洲は外科手術を行うための麻酔薬として、チョウセンアサガオの麻酔効果に着目し外科手術に応用した。チョウセンアサガオの茎・根にはヒヨスチアミン、アトロピン、スコポラミンといった神経中枢を抑制する成分を含有しており、その効果は現代医療でも証明されている。
 青洲はさらにトリカブトなどを加えて「通仙散」と称する麻酔薬を精製し、これを外科手術に使用していた。文化元年(一八〇四)一〇月、青洲は通仙散を使い、世界初めての乳癌手術に成功した。しかし青洲は、「春林軒家塾掟」を作り、塾生に未熟の医師が通仙散を使うことを厳しく禁止した。
 竹中謙随のほか、育徳館の教示助平田随庵、田川・下大任の原春望なども青洲のもとで外科術を学んだ医師である。豊前の地で華岡流の外科手術が行われたことは、わが郷土において先端医療が実施された証であり、郡民の恩恵も少なくなかったと推察されるのである。