慶応四年(一八六八)は九月から明治と改元されるが、その一二月に明治政府は「医療学術の研究に関する布令」を発布した。「医師ノ儀ハ人ノ生命ニ関係シ実ニ容易ナラザル職ニ候」に始まる布令は、医師は免許を有しなければ開業できないと規定され、その免許とは西洋医術を学んだ者のみ交付された。
豊津藩では明治二年(一八六九)一二月、小原省三、土屋良策、原弥太郎、香月益太郎、渡隆之助の五人を選び、西洋医学の修業を目的に東京の医学所への留学を命じた。
当時、同じく医学所に学んだ後の軍医総監石黒忠悳は、医学所の沿革にふれた『石黒忠悳懐舊九十年』に、各藩からの留学生について名前を挙げているが、その数名のなかに小原省三の名を書き連ねている。この小原省三こそは、のちに小倉県に設置された小倉医学校の初代校長となった小原省三その人であり、門司の友石家から松原村の小原玄琢の養子となった人物である。
明治五年(一八七二)一一月、小倉県(廃藩置県によって豊津藩は豊津県になったが、明治四年一一月小倉県に吸収された)は、変則医学校兼病院を小倉船頭町に開設した。旧藩の官医だった秦晋吾と西元朴は小原省三を校長に推薦し、省三は明治六年六月を以て医学校の校長兼病院長となった。
当初、変則医学校としたことについて疑問を感じるであろうが、当時は外国語教科書による授業を正則、翻訳教科書による授業を変則としたからである。医学校が実際に開校するのは明治七年(一八七四)六月からで、定められた入舎規則による年齢制限は、正則は一五歳より二二歳まで、変則は一三歳より三〇歳までとしている。
修業年限は予科三年、本科五年の八年制で、政府の定めた医学校規則に準拠したものである。さらに小倉医学校には、速成課程の二年履修の制度があり、旧藩時代の漢方医などに対し短期間で西洋医学を習得させようと配慮したもので、西洋医転換への速成コースであった。
行橋の医師木村良一氏は、小倉公立医学校の校印を押した『耳科提綱』を所持されているが、医学校における医療教育の実際を知ることができる。
ともかく、この小倉医学校の設立によって、地元の企救郡はもとより京都・仲津・築城・上毛・田川の豊前六郡の旧郡医は、年齢的な制限があったにせよ、西洋医に転換する機会が与えられたのである。
明治九年(一八七六)一〇月、小倉船頭町にあった小倉医学校は校舎を室町に新築して移転するが、その新築費用は豊前六郡の有志に寄付を仰いでの着工であった。ところが、同年小倉県は福岡県と合併し、各県に一校とする官立医学校の建前から、小倉医学校は県立の二字が外され企救郡外五郡組合立の公立医学校となった。そのため、学校建設の費用に加えて学校維持の負担が加わり、学校経営は財政破綻を起こし行き詰まった。小原校長は総額一八六四円という負債を何とかしようと奔走するが、結論からいえば明治一一年(一八七八)医学枚は廃校に追い込まれた。
小倉医学校兼病院の経営は、企救郡連合町村会が経営を引き継ぐことになり、山田得之が校長兼病院長となるが、これも五年とは続かず、明治一五年(一八八二)に再び経営難から学校は閉鎖された。その主たる原因は、明治一五年に公布された「医学校通則」で、甲種に指定された医学校を卒業した者のみ、無試験で医師免許を与えることになったからである。
乙種医学校の小倉医学校の卒業生は、改めて医師免許を得るために国家試験に合格しなければならず、そのこと一つをとっても乙種医学校の存立は難しいものであった。小倉医学校が甲種に指定されるためには、医療および実験設備に膨大な資金を必要とし、学校歳費三六二〇余円の負担さえ困難な状況では、それ以上の財政負担を郡民に求めることはできなかった。
以上が、小倉医学校の創立から閉鎖に至る経緯である。短期間であったとはいえ、ことに二年間の医師速成コースにより漢方医に医師免許を与えたことは、旧藩時代の郡医にとって何よりの朗報であったに違いない。