近年格別困窮……亡所村々は是非新百姓居(据)え申さずては、御田地余りの分、御根付(作付け)出来仕らず……此節拝借御願申し上げ候五貫目ニては、手永々々共ニ引足り候義ニては御座無く候
すなわち、農村の窮迫は近年特に著しく、人口が減少した村では、新たに百姓を導入しなければ空き田地の耕作ができない。この度藩から借用した五貫目では、どの手永も新規百姓を入れる資金としては不十分である。しかし、藩の財政も逼迫しており、なんとか頑張ってみよう、というのである。ところが翌々一一年八月、二度の大風に見舞われ、全領域にわたって多大な被害を被った。
特に当市域の大橋村では、八月九日の夜に、この風にあおられたものと思われる火災が発生している。居家三七三軒の内一三九軒が焼失し、郷蔵や寺院などのほかにも多大な被害が出た。この大風は長崎・佐賀地方を通過した台風と思われ、「豊後路の方ハ軽」いというが、小倉藩領では八月二四日の大風とともに、「希代の大変」事となった。二四日の被害は、破損の居家数は三〇〇〇軒余で九日よりも少ないが、死者は八八人、船の被害も二四一艘と、むしろ多くなっている(詳細は第三章第三節参照)。
大風による被害は、当然に秋の収穫にも悪影響を及ぼすことになり、藩は「御下ケ米」の名目で年貢減免を行った。全領で約四万石であるが、京都郡は六〇〇〇石、仲津郡は七〇〇〇石である。さらに仲津郡では、河川の被害による「川成皆損田物成引」という課税免除が九一六石五斗八升三合六勺あり、被害の甚大さがうかがえる。しかし藩の財政も苦しいところから、逆に領民の方からは「願上米」あるいは「差上米」として、年貢米の他に若干の米を納めるなど、互いに気遣いを見せている。文政一一年の上納米高は表1の通りである。
表1 文政11年年貢・願上・差上米高 | ||||
郡名 | 年貢米(石) | 願上米(石) | 差上米(石) | 合計(石) |
企救 | 12718.4540 | 300.0000 | 13018.4540 | |
田川 | 14542.9842 | 350.0000 | 14892.9842 | |
京都 | 9677.8643 | 250.0000 | 9927.8643 | |
仲津 | 9571.0308 | 280.0000 | 9851.0308 | |
築城 | 6483.3568 | 130.0000 | 6613.3568 | |
上毛 | 5766.8177 | 120.0000 | 5886.8177 | |
合計 | 58760.5078 | 300.0000 | 1130.0000 | 60190.5078 |
出典:「中村平左衛門日記」 |
幸いにも、近年は豊作が続き、この年春の麦作も順調であったために、領民が餓死するほどのことはなかったという(『中村平左衛門日記』)。
京都・仲津郡における新規百姓取立の実態について、その詳細を知ることはできないが、文政九年(一八二六)に仲津郡大庄屋が、取り立てた「新百姓」の当面の生活費として、麦の拝借を願い出た事例がある。それは、大麦一二石と小麦一五石を無利息で拝借し、返済は翌年から五ヵ年で返済するというものである(「国作手永大庄屋日記」)。