農村の荒廃

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 文政期の新百姓仕据え政策によっても、農村の荒廃は改善できなかったようである。天保元年(一八三〇)三月にも仲津郡各手永が、新百姓仕据えのための費用を藩から借用している。藩札で元永手永が二貫九〇〇目、国作手永二貫八〇〇目、平島手永二貫八〇〇目、長井手永二貫目、節丸二貫目、合計は一二貫五〇〇目である(「国作手永大庄屋日記」)。さらに一〇月には、翌二年秋に仲津郡に下付される予定の「御下ケ米」八〇〇石を前借として、藩札四〇貫目(一石=札五〇目替)を拝借した。
 ついで天保三年一二月にも、仲津郡は年貢上納不足分の米四〇〇石を拝借とし、これは無利息で、返済には翌年から一〇年かけることが認められた。また、農民の疲弊を懸念した藩は天保六年(一八三五)、子どもが多くて養育が困難な者の内、「格別難渋の者」に対しては、子どもが七歳になるまでの間、養育費を補助することを表明した。
 前節に記したように、天保七年には平野屋札発行停止をうけて、世情不安をかりたてたが、この年は夏以来の雨続きで、小倉藩領はまだ良い方とはいえ、企救郡だけでも六三〇〇石もの年貢減免を必要とした。当地方の様子は判然としないが、各郡とも長雨による虫害が著しく、藩は虫害駆除のために鯨油を配布した。
 郡毎および仲津郡各手永への配布量は表2の通りである。さらに国作手永に関して各村への配布量を示したのが表3であるが、同手永内の配布によると、鯨油一挺の内容量は約三斗七升となる。これを元にすると、仲津郡の割当て量は二九石六斗、京都郡は二八石四斗九升、全領では一七〇石九斗四升ということになる。
表2 鯨油の配布
郡名 数量(挺)  
企救 100
田川 118
京都 77
仲津 80 元永手永 17.0
築城 50 国作手永 16.5
上毛 37 長井手永 16.0
合計 462 節丸手永 14.0
    平島手永 16.5
出典:「国作手永大庄屋日記」

表3 国作手永各村鯨油の配布
村名 鯨油量(石) 内せび油量(石)
福富 0.3280 0.0600
寺畔 0.1070 0.0200
国作 0.5050 0.1000
惣社 0.1480 0.0200
矢富 0.4270 0.0800
有久 0.1890 0.0400
大橋 1.7698 0.3100
竹並 0.2900 0.0600
下原 0.2780 0.0500
田中 0.3620 0.0700
呰見 0.4300 0.0800
綾野 0.4570 0.0900
国分 0.3770 0.0700
上坂 0.1240 0.0200
徳政 0.1650 0.0300
同新所 0.1270 0.0200
福原 0.1330 0.0200
合計 6.2168 1.1400
出典:「国作手永大庄屋日記」

 鯨油の使用方法は、稲田に水を張って鯨油を注ぎ、早苗の葉を油水につけて害虫を殺すというものである。この時の注油量は、田地一反に鯨油一合二勺八才七毛で計算されている。虫害の駆除法としては、古くから松明を灯して虫を寄せ、そのまま村外れまで移動して焼き殺すという、虫送りの方法もある。表3に見える「せび油」とは「施火油」、すなわちこの虫送りの松明に使用する油のことと推測される。注油法と虫送りの両方法による虫害駆除を想定したものであろう。
写真1 油による虫害駆除『除蝗録』
写真1 油による虫害駆除『除蝗録』
(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)

 作方状況検分のために代官や検者が回村し、郡代役所においては筋奉行も出席して協議したが、なかなか年貢率は決定せず、郡代が直接に検分のため出張した。引米の数量については、筋奉行と大庄屋が対立する有様で、九月二四日、行事村の郡代宿所において再度協議された。どの郡も、郡内だけでは決定できず、難儀の様であったが、京都郡は「行司ニて相極り候」という。特に築城郡の場合は「御免方行司ニおいて、表向は相済候得」ども、内実はなかなか折り合いかつかなかった。特に築城郡などは、村人との軋轢を懸念して退役を願う村役人が出現するほどに深刻な事態に陥り、独断で作付料返済を免除した筋奉行延塚卯右衛門が、ついには切腹して責任を取るという事件にまで発展した。
 そして弘化四年(一八四七)秋の年貢上納ができずに潰れた百姓は、元永手永一四六軒・国作手永一五四軒・長井手永九二軒・節丸手永九〇軒・平島手永一七五軒、仲津郡合計で六五七軒を数えた。それらの百姓たちは家を売り払い、あるいは家を抵当に借金し、または牛馬・藁草・麦田などを売却して奉公に出るなどして、当座を凌ぐ有様だった(「国作手永大庄屋日記」)。