志津摩も国産奨励策を継続しており、概略は第四章第五節に示したが、彼の施策は郡方行政や農村復興にも及んでいる。その施策の実行については、嘉永七年四月に郡代に就任した河野四郎(通棣)の役割も大きい。河野は郡代のほかに、藩の財政や用度を統括する「御本〆役」、さらには国産品の中でも重視された「生蝋方御用掛」も兼任することになった。
藩の財政再建や農村復興に際し、常套手段となるのが質素倹約である。河野四郎は就任早々、六月に始まる小倉祇園会を前にして、郡中諸祭礼にも関する触を出した。神事・祭礼は「上御武運長久・五穀成就」を目的にし、「氏子一和致し、祈念をこらし候」ことは勿論である。また村人たちの仲が「不和」では「感応」がない。柔和に慎むことが必要である。ところが、百姓は「日夜辛苦いたし候」につき、祭りのときこそ随分に楽しみ、飲食に耽って、つい「放逸ニ流れ、農務ニ怠り」、身代を失うことにもなりかねない。近来は、祭礼式が華美を競い、鉾や山車飾りを新規に拵えるなど、年々大仰になっている。以後神祭は古風を旨とし、羅紗・錦などの幟や彩色画の献灯を禁止する、というものである。
質素倹約にもまして、村方諸役人の綱紀粛正は徹底している。七月九日出された触(「国作手永大庄屋日記」)は、次のようである。
此度御取締りニ付、六郡大庄屋・小庄屋の者共、去ル酉年(嘉永二)より昨丑年(同六)迄五か年の間、御米取立勘定諸帳面類、並諸取立向、内免仕配り、諸出米打分ケ、役目差引、村々人別差引帳等、少も洩落ちなく、早々差出し申すべし。
これまでの仕来りを問題にしようというものではないというが、「疑念等差含み」、提出が遅れると「きっと咎方申し付け」るという。