帳簿の検査は、大庄屋や庄屋による村方諸算用に不正がないか否かを監査することが主目的であり、検査は七月二四日から始まった。取り調べの場所は家老島村志津摩の屋敷で、調子方役の者たちは郡方御用聞を勤める城下町の海老屋辰次郎方に下宿し、そこから毎日、志津摩宅に通勤するのである。取り調べに使用する筆・紙・墨・朱墨や焚炭は郡代支配の「御郡方役所」から支給され、台子や茶・煙草盆・硯箱は志津摩宅の品を借用した。
まず大庄屋の帳面から調べが始まり、庄屋の帳面取り調べが始まったのは閏七月五日からであるが、庄屋帳面検査が始まる以前に、京都郡庄屋の内で不正を自白する者が「数々これ有」り、特に延永手永の庄屋は「残らず自訴いたし候」という。京都郡庄屋の不正の内容は、次のようなものであった(「中村平左衛門日記」)。
京都郡去丑秋御免拝借八百石下方へ貸付けず、其のまま郡辻へ預り置き候由、此義甚不取計いの段御郡代様より御沙汰ニ相成ル、尤も歩掛米残り共ニハ千六百石程もこれ有り候由也
すなわち、救済のために下付すべき藩からの拝借米や予備の米を、窮民に配布せずに、そのまま村役人の手元に据え置きにしていたというのである。
不審の帳面については、大庄屋・庄屋を呼び出して面談の上問いただすなど、非常に厳格を極めるものであった。調子方役の帳面検査が終了したのは閏七月二九日であるが、当職家老島村志津摩は郡代・各筋奉行を交えて以後の処置方法を協議した。そして八月一日には、各郡から一名の調子方役が家老屋敷に呼び出され、調書内容の確認があった。
右帳面監査によって、多くの不正が摘発されたものと思われ、各郡ともに大庄屋の更迭・異動が行われた。安政二年(一八五五)正月二四日、郡代役宅において、企救郡津田手永の大庄屋で、帳面の「六郡吟味役」を勤めた中村平左衛門が、京都郡延永手永と新津手永の二手永大庄屋に抜擢された(延永平三郎を名乗る)。また黒田手永大庄屋の七右衛門が久保手永の大庄屋となって、以後は久保七右衛門を名乗り、黒田手永も兼任することになった。すなわち、延永・新津・久保手永の大庄屋は、罷免されたということである。京都郡の場合は、大庄屋更迭にとどまらず、筋奉行まで退役させられた。そこで京都郡の郡方役は、仲津郡筋奉行の三宅円司が「当分兼帯」となり、代官は高竹林兵衛、山奉行は堀文蔵、蓑島在番は木村重平、山手代は松山番人の吉田平助という布陣になった。