平左衛門は、寛政五年(一七九三)七月二四日に企救郡菜園場村に生まれ、文化五年(一八〇八)には企救郡の勘定役と人馬方役に就任した。その後同八年に子供役加勢を兼帯し、文政五年(一八二二)小森手永の大庄屋を拝命した。以来、同一〇年富野手永、一一年津田手永の大庄屋となり、天保一三年(一八四二)片野手永大庄屋兼帯、弘化四年(一八四七)には城野手永大庄屋を兼帯するなど、企救郡各地の農政に通じていた。
多彩な経験を有する平左衛門ではあったが、「老年」の上に、郡違いの不案内の土地柄で、しかも二手永兼帯ということには難色を示した。しかし、筋奉行三宅円司や久保手永大庄屋の説得により、延永手永本役、新津手永兼帯の就任に応じることにした。とはいえ、行事村に設置されている延永手永の役宅には常駐せず、必要に応じて企救郡津田村の自宅から出張し、他所への出張などの「外勤の所」は、補佐役である子供役が代行することになった。それほどまでに、中村平左衛門の村方行政手腕が買われたものであろう。
二月一日の早朝に津田村を出発し、苅田村の手前で新津手永の庄屋三人の出迎えを受け、まずは与原村の新津手永役宅で同手永子供役・庄屋中の祝儀を受けた。そののち八ツ半(午後三時)頃、与原を出発して行事村の延永手永宿に到着。同所でも延永手永の子供役・庄屋中の祝儀を受け、止宿した。延永・新津手永の各村庄屋は表4の通りである。
表4 延永・新津手永各村庄屋名一覧 | ||
延永手永 | ||
村名 | 庄屋名 | 備考 |
山口 | 延永健右衛門(子供役) | 兼帯 |
谷 | 堤半六(格式子供役) | 2月より高瀬伝平 |
下津熊 | 宮崎忠左衛門(子供役格) | |
鋤崎 | 高瀬喜左衛門(子供役格) | |
長木・上津熊 | 吉武喜平次(子供役格) | |
吉国・延永 | 前田元平(子供役格) | |
長音寺 | 糒吉郎右衛門 | |
行事 | 米谷仁兵衛 | 産物〆り方兼帯 |
二塚 | 宮崎桓左衛門 | |
中津熊 | 健蔵 | 手永勘定方兼帯 |
草野 | 高瀬伝平 | 2月より平蔵 |
下崎 | 宮崎良平 | |
黒添 | 高瀬理左衛門 | |
長尾 | 郷平 | |
法正寺 | 裕蔵 | |
新津手永 | ||
雨窪・苅田 | 林田六郎左衛門(格式子供役) | 産物〆り方兼帯 |
上片島 | 挟間与一郎 | |
下片島 | 山本弥平次 | |
稲光 | 飯塚為左衛門 | 2月より武七 |
提 | 間馬利平次 | |
尾倉 | 岡崎伝左衛門 | |
与原 | 神清右衛門 | |
馬場 | 甫一郎 | |
新津 | 久留喜右衛門 | 2月より飯塚為左衛門 |
浜町 | 鉄太郎 | |
光国 | 文五郎 | 手永勘定方兼帯 |
集 | 中原伴七 | |
岡崎 | 四郎右衛門 | 2月より源之助 |
葛川 | 丈右衛門 | 2月より久留喜右衛門、同11日より源一郎 |
松山分 | 新八 | |
二崎分 | 雄三郎 | |
出典:『中村平左衛門日記』 |