当時の京都・仲津郡は、平尾台の草伐り場利用をめぐって、企救郡小森手永の新道寺村とが争論を抱えていた。草伐りは、牛馬の飼料や薪など農民生活に不可欠のものであり、それだけに利用区域や方法は村間のもめ事になることが多かった。安政二年(一八五五)四月一三日、平左衛門は小森手永大庄屋宗左衛門と協議して和解案を作成し、村方を納得させることにした。
平左衛門からの提案は、新道寺村の方から京都郡村々が草伐りできる区域(傍示)を決めてもらい、「茅・茨・ばいら等」はこれまで通り、傍示の内外で採取したい。これが認められれば、「新道寺村亡所御取救い御足束の為」という名目で、同村復興までの間、毎年米何石かを進上する、というものであった。
宗左衛門はこの提案に賛同し、村方に持ち帰ることにした。進上米高や取交わし証書の文言などをめぐって、幾度かの交渉を経たのち、六月一八日に関係諸村の庄屋が平尾台に会合した。そこには長州藩の測量師益成善右衛門や、画師大橋村貞次郎も登山したが、「傍示極メ手間取り候ては、時節ニ差掛り、干草伐方差閊ニ及」ぶとの理由で、この年だけは「双方居り合い宜しく」、区域を決めずに「入合伐り」にすることになった。そして、七月一日から一九日までの間、新道寺村のほかに、京都郡各村方頭が見回りとして登山する。進上米は京都郡から八石、仲津郡から二石であった。
右の評議ですべて一件落着したわけではない。平尾・千仏・内ノ蔵三山に住居の者は、進上米は三山のためにはならず、三山の権利が減少するだけだと、新道寺本村とは「心得方大ニ違」い、後の揉め事の種になる危惧があった。
翌三年六月二九日、再度関係庄屋が平尾台で会合し、「去年の振合を以」て、むつまじく入合伐りすることで決着した。この時には、平尾から甚四郎、千仏から彦右衛門、内蔵から惣助も参加しており、納得の表決となったのであろう。
平尾台草伐り争論に関し、小森手永との調整において、かつては同手永の大庄屋を勤めた中村平左衛門の存在は、無視できなかったものと思われる。小森手永大庄屋の宗左衛門が、平左衛門の提案にいちはやく賛同の意を見せたのも、長く企救郡同役の関係があったからであろう。