翌二年、延永・新津手永の大庄屋に就任した中村平左衛門は、自らの才覚で『除蝗録』を購入して配下の庄屋に配布した。その施本の末尾には「添書」として、写真2に示すような文言が綴じこまれている。
此前後の二巻ハ、農家蝗をのぞくの良法をかずかず著したる書なり、此度郡鑑河野君厚き思召にて、下民に教示せよとて下し給へり、しかるにあまたの仕かたを教へ諭さむには、一朝一夕一渡りなど読聞せたりとも、会得しがたからんと、おのれ思量て、一村に一部ツヽを求て、村長に渡置ものなり、故長より、産社の参籠、諸祭礼、またハ集席の砌幾度も読聞せ教諭して、秋稼全稔をはかるべきものなり
安政二暦
乙卯仲夏 延永平三郎維良
安政二暦
乙卯仲夏 延永平三郎維良
署名の「延永平三郎維良」とは、中村平左衛門のことである。そして添え書きの文字は、平左衛門が津田手永の大庄屋を勤めていたときに、子供役であった津田市太郎が、ちょうど行事村に来ていたのを幸いに、代筆を依頼したものである。
『除蝗録』を庄屋や村人に読み聞かせても、虫害駆除の方法を簡単には会得できないと考え、前編・後編の二部を各庄屋に与え、村内での会合の度に何度も読み聞かせようとしたのである。平左衛門の日記によると、前編・後編合わせて三五カ村分の七〇冊を、行事村の商人堤(新屋)半蔵の世話で入手したが、その費用二両余は自身の大庄屋役料の内から捻出したという。久保手永大庄屋の七右衛門も同手永と兼帯の黒田手永各村に配布した。
鯨油を使っての虫害駆除について、すでに天保七年に行われていることは前記したが、この度は農書を配布するほどに徹底したものである。『除蝗録』には、鯨油の田地への注入駆除法や夜間の松明による虫追いなど、幾多の駆除方法が記されている。延永手永では早速安政二年七月の下旬、「除蝗録の内ニこれ有り候、竹ニて灯台を拵え、田坪ニ立置き、火を燃し候仕法」を試みている。