大首谷池のほとりに、高さ五〇センチメートル(台座共)ほどの、水神を祭る小さな祠が立っている。建立は安政七年(万延元年=一八六〇)正月で、背面には「願主中村平左衛門維良」とある。平左衛門が当地方の大庄屋を退役したのは安政四年正月であるから、この祠の建立は、退役二年後のものということになる。大首谷池に対する思い入れが強かったのであろう。『京都郡誌』によると、同池は旧京都・仲津郡域において、竹並の泉池(九町二反五畝三歩)に次ぐ水面積(七町七反五畝)を持つ大池である。
この池は、長木村に限らず、下崎・吉国・延永・上津熊・中津熊・下津熊・長音寺・草野・行事村の田地まで潤す重要な灌漑用水池となった。平左衛門の先代大庄屋山本弥左衛門の時代、天保八年(一八三七)に池を築立て、水道を掘りかけたが、土壌が悪く掘抜きができないまま廃池になっていた。しかし池所については、耕地を潰しているために、年貢の「弁米」一〇石を上納せねばならず、五石は関係の村々から、五石は手永全体の負担でまかなっていた。そこで、池を利用し、さらに「弁米」を処理する方策が講じられることになったのである。
安政三年(一八五六)二月一五日に、中村平左衛門・子供役延永健右衛門のほかに、鋤崎・長木・草野村の庄屋が現地を検分し、池に底樋を据えることにした。この方法を実施するにあたっては、京都郡筋奉行と代官に、企救郡下曽根村「出切浜ノ道」の底樋に案内し、了解を取り付けた。三月九日に、樋据え場所の荒絵図や田数・畝高・物成・引米の免極、さらには樋材・作料などの書類を筋奉行に提出。これをうけて、樋据え場所が仕立山にかかることから、一一日には山奉行の検分も受け、いよいよ一九日池所底樋場において、「請負の者手初」の祝儀がとり行われた。そして七月二二日、最後の溝樋三艘の据付が終了し、通水の試験が行われた。その結果、底樋の通水は「至て宜しき趣」だったが、樋尻の溝が高いために、溝への流水に難点が見つかった。溝を掘り下げるのは「甚大造」であることから、樋尻の場所を一七、八間ほど掘り下げて水車を据え、溜まった水を溝に汲み上げることにした。この作業が終わったのが二四日で、関係者が集まり、「池普請棟上の心持ニて」酒肴が振舞われた。
八月一日から本格的に池からの「水下し」が始まったが、各地に「干付田」があったために、行事村に水が届いたのは八月一〇日のことである。当面の水掛り田は八六町歩に上った。なお、普請の費用一八〇両余については、無尽と年賦借用で一二〇両を捻出し、残りは手永の積立金でまかなった(『中村平左衛門日記』)。