小倉藩の特産品

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 小倉藩の特産品として、縦に絹糸、横に苧や木綿の捻り糸を使った縮織(小倉縮)と、厚手の木綿織(小倉織)が知られている。前者は絹糸を使用することから、一般庶民には不向きの高級品で、小笠原五代藩主の忠苗は、将軍への献上品にしている。縮は、小笠原氏が播磨国明石城主の時代、船大工の娘菊がカンナクズの捻りにヒントを得て考案したもので、それが小倉藩に伝わったという。当地方を旅した長久保赤水は『長崎行役日記』の中で、小倉城下で「明石縮」が売られていることを記していることから、右の伝播説は有力である。
 縮に比べると木綿織物は一般的であるが、徳川家康も着用したとの文献がある。その木綿織物について見ると、江戸時代後期の経済学者佐藤信淵は『経済要録』の中で、「綿布ハ豊前小倉、伊勢ノ松坂、其名古来高シ」と、当小倉藩で生産される「綿布」を高く評価している。また豊後国日田出身の農学者である大蔵永常が著した『広益国産考』には、「木綿類にて国産とよべるものには、結城木綿縞、毛加木綿、小倉織……」とある。そして喜田川守貞の風俗志随筆『守貞謾稿』は、
 
小民及ビ奴僕・下児等ハ、小倉帯ヲ専用トス、豊前小倉ニテ製之、綿糸ヲ以テ男帯幅ニ制セリ、色ハ革色・茶色・紺色等種々、又無地アリ、縞筋ヲ織タルモアリ

 
と記して
 この「小倉織」の起源については、小笠原氏が信州から伝えたとの説もあるが、「小倉しま(島)」と呼ばれる木綿織物は、すでに細川氏時代に生産されている(「日帳」、永青文庫所蔵)。その木綿織物は、幕府の役人である豊後国府内(大分市)の「御横目衆」や、長崎代官の末次平蔵などへの進物にも利用されており、決して粗品ではなかったと思われる。