じつは前年に平左衛門は、出雲国産の木綿織技術について、「第一糸引手早」の噂を聞き、行事村直右衛門という者に同国の糸車を取寄せさせた。しかし、糸引きの心得がないために思うほどには成果があがらなかった。ちょうど津田泰蔵が、出雲神官で企救郡旦那の高浜数馬に相談し、今三年春に「糸引の伝授」のために津田手永の女性を派遣する計画を立てていた。平左衛門もこれに同意して、行事村と苅田村の女性各一名を派遣しようというのである。そこで平左衛門は、同じ出雲神官で京都郡旦那である森杢大夫への頼状を認め、派遣女性に持参させた。次のようである。
一筆啓上致し候、春暖の時下弥御清栄御勤め成さるべく、珍重に存じ奉り候、然は行事村仁右衛門妻とく・苅田村喜三郎娘むら、右両人義此度大社参詣、並び其御地女工の業稽古として罷越し申し候、尤此義ハ企救郡津田泰蔵発起にて、御同職高浜数馬君へ委曲御示談申し置き候趣ニ付、御同人と仰せ合わされ、宜しく御取計い下され度頼み奉り候、婦人の義ニ付、別て御世話ニ相成候義も御座有るべく、万端御心を添えられ下さるべく候、右御頼として貴意を得べく、此の如く御座候、尚後喜の時を期し候、恐惶謹言 | |
三月二日 | 中村平左衛門 |
延永平三郎義 | |
森杢大夫様 |
当初延永手永からは「行事村仁右衛門妻とく」と「苅田村喜三郎娘むら」の二名を派遣する予定だったが、「とく」に差し障りが出たため、行事村の「たね」が同人の代理となった。出雲派遣の一行は、右二人と企救郡下曽根村・上富野村の女性各一人、それに世話人として企救郡上長野村方頭良右衛門の五人で、表向きには出雲大社参詣の願書を藩に提出して、三月二日に出発した。延永手永二人の派遣「雑用金」八両余は手永の負担で、藩札にして五七二匁四分、ほかに一人当たりの「雑用金」は金一分であった。そして帰国したのは四月八日であるが、出雲での糸引き稽古は一四、五日のことという。