「綿繰り」・「糸引き」と「機の仕掛下地拵」は、出雲の方が手早であったことから、帰国に際して糸車・片輪車・綿繰り・錘などの道具類も買い求めている。そして四月一一日、中村平左衛門は早速「たね」を役宅に呼び寄せて、糸引きの技術を披露させた。
「たね」は六月一〇日、新津手永子供役吉左衛門宅で近隣の女性に糸引きを教え、一六日からは行事村の「徳人」宅へ伝授に回ることになった。こうして「出雲流糸引」は、「村々大はつみ」となり、八月の長木村における稽古には四一人が集まった。その後も稽古に集まる女性は増え続け、九月末には家老島村志津摩宅にも招かれ、小宮・大羽氏ほか上級家臣の婦女子にも糸引き伝授を行うほどであった。「出雲流糸引」が普及するにつれ、当然に糸車や錘などの道具類の需要も増し、錘は阿波国から取り寄せ、糸車は領内での生産も試みられた。
小倉織は「随分厚、もろよりの木綿糸」(津村淙庵「譚海」)が特徴であったが、「出雲流糸引」が伝授されたことにより、「小糸織」の名称が使われるようになった。小倉織は、かつての手紡ぎ糸による厚手のものから、より繊細な「小糸織」へと変遷を遂げたものであろう。「小糸織」の生産は、「末々小前の者とも」が生活維持のための内職で行われ、多少値段が安くても売り払っていた。そこで国家老の島村志津摩と小笠原織衛は、江戸家老の小笠原四郎左衛門・同監物両名に、「小糸織仕組」に関する書状(安政三年「小倉追書」北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)を送った。
それによると、「小前の者」から「小糸織」を安価に仕入れて、他国に販売する者がいる。そこで「品物相応の直段」で取引するために、取扱いの商人を次のように限定した。いずれも小倉城下町の商人であるが、領内販売のみを行う商人は鍋屋五平・茶屋判兵衛・伊賀屋彦兵衛・渋屋勇蔵・長門屋覚兵衛の五名。そして他領への販売も許可されたのは、和泉屋四郎兵衛・竹屋藤吉・肥後屋才兵衛・出来屋春蔵の四名であった。
中村平左衛門は「小糸織」が「国益ニも相成べし」とよろこび、安政三年(一八五六)一二月から行事村で「小糸織」殖産を計画した。行事村庄屋仁兵衛を「大世話」役、茶屋音右衛門と角屋武蔵両人を世話役にして、織り方は「たね」母娘が担当する。資金として札一貫目を延永手永で用意し、平左衛門も札一貫目を用立てた。右世話方は「冥加」として行うもので、世話料としての「口銭」はない。行事村の桶屋梅吉に「出雲流糸車」を作らせ、「小糸機」三丁は、平左衛門の親戚でもある到津八幡社宮司の川江氏に調達を依頼した。また製品の値段決めについては、堤(新屋)平兵衛と協議した。
「出雲流糸引」の技術は田川郡のほか、他領の筑前・長州にも伝えられ、安政四年二月には長州藩から行事村に「出雲流糸引」稽古人が派遣されるなど、殖産興業として注目を集めた。そのような中で中村平左衛門は同四年二月二七日に、高齢と病身を理由に延永・新津手永大庄屋を退役した。
行事村における「小糸織」殖産は以後も継続されたが、当初平左衛門が期待したようには営業的成果は上がらず、同年春の内には中止されたようである。同五年に入り、思いのほか雑費が嵩んで五〇〇目余の損失を計上したことが、平左衛門に報告され、彼も損失の一部を弁償することになった。八月二八日、平左衛門の許に、用立てた札一貫目から損失補填や諸雑費分を差し引いて、残り三〇五匁二分が返済された。
行事村における「小糸織」殖産は、わずか数ヵ月の間に破綻したが、「出雲流糸引」の技術は広く伝播されており、「小糸織」は新たな小倉織として、小倉藩の国産品になった。昭和初期にまで親しまれた「小倉織」は、この時の糸引き技術革新による「小糸織」と思われる。