唐船とは中国の密貿易船であるが、日本では唐の時代から中国の船のことを唐船と呼ぶ習わしがあって、明から清の時代になっても中国船を唐船と呼んでいた。
その唐船が、頻繁に響灘に現れだしたのは享保年間のことである。享保二年(一七一七)から同五年(一七二〇)の三年間に、福岡・小倉・長州の三藩が出した取締船の数は八〇〇隻にも及んでいる。小倉藩は五〇騎(隻)からなる洋上御手当(海軍)を編成して響灘に出動させたが、唐船の取締りはお手上げであった。当初、取締船の指揮をした小倉藩の経済的負担は藩財政を圧迫、幕府に願い出て指揮を三藩の持ち回り制にしている。
密貿易船の取締りに難渋したもう一つの理由は、寛永一二年(一六三五)に発令した三回目の鎖国令によって、五〇〇石以上の船および三本マストの帆船を禁止したことである。そのため、二〇〇石積の弁才船を転用した日本側の軍船は、全く密貿易船の船足に追いつくことができなかった。困り果てた小倉藩は幕府と相談し、大坂の牢獄から密貿易の巨魁、先生(しゃんすい)金右衛門を釈放、その手引きによって唐船をおびき寄せ拿捕するといった非常手段を用いている。要するに、小倉藩が密貿易船の取締りにどれほど苦労したかといった証左であり、それは外寇に備えた職責に対する小倉藩の誇りでもあった。
幕末の小倉藩が、攘夷問題について幕命を第一と考えたのは以上述べてきた経緯から当然であって、それは同時に長州藩との確執となったのである。