文化元年(一八〇四)九月、ロシアは使節レザノフを長崎に派遣し、日本との交易を求めてきた。以後、文化四年(一八〇七)四月にはアメリカ船、翌五年八月にはイギリス船フェートン号が長崎に入港、ことに同船はオランダ商館員を捕らえるという「フェートン号事件」を起こした。そのため、長崎奉行松平康英(やすひで)(佐賀藩家老)は引責自害、藩主鍋島斎直は幕府から蟄居を命じられた。
このように、欧米船が頻繁に日本近海に現れはじめると、幕府は対応として各藩に海岸防衛を厳重にすることを命じ、要港については台場の増設を命じた。外寇に対する備えが強調され、各藩とも対応に苦慮していた。小倉藩でも吉見浦に烽火が上がる騒動があり、藩内が極度に緊張していたことを示している。
その後、文政一一年(一八二八)に「シーボルト事件」が起こり、翌一二年九月、幕府はシーボルトに帰国を命じている。蘭学者高野長英が長崎を逃れて中津藩に入り、小倉藩においてもさまざまな風説が流れた。これは一方では、オランダ式砲術や海防策への関心を高めることにもなった。
天保一五年(一八四四)七月、オランダ国王ウィリアム二世は長崎へ軍艦を派遣、将軍に宛てた国書により開国を勧告した。幕府は唯一オランダとの通商を許して長崎にオランダ商館の設置を認め、交易船の入出港については長崎奉行の采配に委ねていた。しかし、軍艦の来航については前例がなく、長崎奉行の権限外であった。
さらにその後、琉球に寄港したフランス軍艦が長崎に来港。嘉永二年(一八四九)には、アメリカ捕鯨船の遭難船員の引き取りにアメリカ軍艦プレブリ号が長崎に入港した。こうしたことから、九州諸藩をはじめ全国的に海洋防衛についての議論が高まった。
それが決定的になるのは、黒船と騒がれたアメリカ海軍ペリー提督の浦賀来航である。嘉永六年(一八五三)六月三日、東インド艦隊のペリー提督は四隻の軍艦を率い浦賀沖に停泊した。ペリーは大統領親書を捧呈したいと主張、実現するまで絶対に出航しないとの固い決意を示した。四隻の軍艦は大砲の砲口をのぞかせ、江戸湾に乗り入れたので江戸は大騒ぎとなった。
幕府は六月九日、久里浜で大統領親書を受け取ったが返書は渡さなかった。ペリーは翌年の再来航を告げて去ったが、蒸気機関で動く旗艦サスクエハナ号の威力は、日本人を震撼させた。
その騒ぎがおさまらぬ七月、今度はロシア軍艦を率いたプチャーチンが長崎へ入港、日露和親条約の締結を求めた。これは一時的に拒否したが、やがて翌年再来航のおり幕府との間で日露修好通商条約の調印をみた。
こうしたことから、幕府内でも公然と西洋式軍艦の建造が急務として叫ばれ、水戸斉昭の支持もあって嘉永六年九月、西洋式軍艦を含む大型船の製造が解禁となった。