欧米列国が開国を迫り軍艦を長崎へ派遣したことから、幕府は諸藩に長崎への派兵を求めた。小倉藩は長崎異変と事件を総称し、長崎御手当と称する一隊を長崎に派遣した。嘉永二年一一月、福原七郎を長崎御手当、御手当備として鎌田六左衛門(以後、思誠とする)を長崎に派遣している。
つづいて嘉永四年正月、思誠を長崎御手当に任命した。思誠の在任は嘉永七年(一八五四)八月まで三年間であるが、御手当備の期間を入れると実に五年間を長崎で過ごし、後に門司・田野浦在番を命じられている。攘夷実行をめぐる小倉藩と長州藩との確執は、思誠を抜きにして語ることはできない。
ともかくも、嘉永七年正月、ペリー提督の再来航により日米修好条約の締結となった。朝廷はこれを違勅条約と決めつけ、幕府と対決を深めた。