万延元年(一八六〇)四月、幕府は勅許を待たず日米通商条約の批准書を交換した。その直前、これを推進した大老井伊直弼が江戸城桜田門外で尊皇攘夷派の水戸浪士に襲撃され暗殺されるという事件が起こった。「桜田門外の変」であるが、事件のあと老中首座となった久世広周(ひろちか)は、朝廷との関係改善を図り公武合体を推進した。将軍家茂の上洛を実現し、朝廷と和睦するとの策であった。
久世は公武合体の具現化のため孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁することを図ったが、関白九条尚忠は幕府に対し一〇年という期限付きで攘夷決行することを誓約させた。その結果、文久二年(一八六二)二月、和宮と家茂の結婚は実現した。