攘夷に関する勅書伝達と藩主の帰国

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 文久二年一二月一四日、江戸城において攘夷問題に関する勅書伝達が行われた。この日、勅使三条実美(さねとみ)および姉小路公知(あねのこうじきんとも)は江戸城帝鑑の間に諸侯を集め、「攘夷の議が一定しない場合は人心も一致するに至り難く、かつ万一にも内乱が起こるかも知れず、そのことを天皇は憂慮されている」と、攘夷実行に関する勅書を伝えてきた。
 これに基づき小倉藩は、文久三年正月一五日、「攘夷の勅あるを以て、小倉に於て藩士を戒諭すること左記の如し」と、次のように伝達した。
 
、夷船来寇に当たっては、藩士一五歳以上の嫡庶共に速やかに学館(思永館)に集合すべし。
、信号その他は、嘉永二年五月に告示したものに従うべし。

 
 三月一一日、幕府は攘夷について、「攘夷の勅を奉戴せしに由り速に之を拒絶せんとす、若し(外国船が)服従せざるときは直ちに撃攘すべし。厚く此意を体し忠節を抽き国恥を招く勿れ」との告諭書を各藩に伝えた。
 小倉藩は、この幕府の告諭書に基づく藩の意向として、次のように藩士に伝えている。
 
、今回イギリス国より重大な事項三件について回答を求められた。幕府はそれについて是非を審議したが許し難いと考え、ことと次第によっては兵端を開くことを決意した。実に天下安危の時であり、ことに我が藩は九州の喉もとに当たり、戦闘に備えなければ公幕に対しその罪を免れることはできない。故に平素から防禦の策を考え、巨細遠慮することなく申し述べよ。
(『小倉藩攘夷記』)

 
 しかし、江戸においては閣老より、「管内の海岸筋防衛のため藩主の帰城を了解する」の旨を伝えられたにも関わらず、江戸警備について再度藩主の出馬要請があり小倉藩では対応に苦慮した。そこで再度、「管内海岸の防禦もっとも急を要するため」と閣老に願い出て、再度藩主の帰邑(きゆう)を要請した。それに対する閣老の答えは、
 
、帰邑のこと、その求めに従うことを認める。
、但し江戸警備のことは、命じる通り同姓近江守及び老臣などに命じ、厳に計画すべし。

 
 と、小倉藩の求めは概ね了承された。
 藩主小笠原忠幹は家茂に従って上洛していたが、海岸防衛のため、三月二四日をもって京都を発し、四月一〇日に小倉へ帰城した。